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1964年 沖縄をかけぬけた聖火リレー

Ⅰ1964年 オリンピック東京大会、沖縄での聖火リレー決定

 平成26年7月15日から平成27年1月18日まで、所蔵資料展「1964年 沖縄をかけぬけた成果リレー」を開催しました。
2020年オリンピックの東京開催が決定し、二度目となる東京五輪に期待が高まっています。初めて東京五輪が行われた1964年当時、沖縄の施政権は日本でなくアメリカにありました。日本本土へ行くにも琉球列島米国民政府(アメリカ政府が沖縄統治のために設置した出先機関)の許可を必要とし、自由に日本国旗を公けの場所に掲揚することも禁じられていました。
それでも沖縄では、日本の一員として東京オリンピックの感動を分かち合いたいと多くの人々が願いました。せめて沖縄でも聖火リレーを実施してほしい・・・。
1962年7月4日、聖火リレー特別委員会は、沖縄で聖火リレーを行うことを正式決定。1964年9月7日、沖縄はいよいよ聖火を迎えます。

*10桁数字は公文書館資料コード

【琉球政府文教局文書/社会体育に関する書類 1964年度 01 保健体育課 R00097849Bより】

・オリンピック東京大会聖火沖縄リレー走者候補選出打合せ会について 1964年5月14日決裁文書

 聖火沖縄リレー実行委員長および文教局長から、地区体育協会長・市町村体育協会長・市町村長・教育長・本島内高等学校長・大学長にあてた文書です。各区間は原則として地元の青少年が走者を務めることになっており、地域の事情に詳しいこれらの関係者が走者を決定しました。

・オリンピック東京大会聖火沖縄リレーに協力方依頼について 1964年5月26日決裁文書

 文教局長から関係市町村にあてた文書です。走者のユニフォームや訓練等の諸経費について市町村の支援を求める内容となっています。

【琉球政府文教局文書/社会体育に関する書類 1964年度 02 保健体育課 R00097850Bより】

・オリンピック東京大会聖火沖縄リレー試走にご協力方について 1964年7月30日決裁文書

文教局長から市町村体育協会・地区体育協会・関係高等学校長にあてた通知文書です。1964年8月9日開催のリハーサルについて、リレーの要領や計画表などが添付されています。

・聖火リレー隊監督会議について 1964年8月14日決裁文書

 聖火沖縄リレー実行委員長および文教局長から市町村体育協会長および関係高等学校長にあてた文書です。8月9日の試走(リハーサル)の結果、「リレー隊員をいっそう訓練強化する必要がある」と判断され、8月19日に監督会議が設定されました。

・オリンピック東京大会聖火歓迎について 1964年8月18日決裁文書

聖火沖縄リレー実行委員長および文教局長から関係各位にあてて、「はじめてアジアに渡ってくるオリンピック聖火を沖縄において9月6日より9月9日までリレーされますことは、われわれ沖縄住民にとってこの上もない光栄であり感激であります」「全住民が挙って、まごころから聖火を歓迎いたし聖火リレーがとどこおりなく実施出来ますよう且つ又盛大にして意義あらしめたいものです」と歓迎をよびかけた文書です。聖火歓迎装飾の規格等を示しています。

・オリンピック東京大会聖火沖縄リレー経費見積書 1964年8月13日

聖火沖縄リレー実行委員長が文教局長に研究奨励費(補助金)交付申請した文書に添付された経費の見積書です。琉球政府はこれにこたえて2,024ドルを交付しました。

Ⅱ沖縄初の国際聖火リレーは・・・

 沖縄での国際聖火リレーはこの東京オリンピックが初めてではありません。
1958年5月に東京で開催された第3回アジア競技大会において、フィリピンで採火された聖火が、沖縄でのリレーを経て東京へ運ばれました。 この時の様子が琉球政府広報課写真資料に残っています。米軍によって禁じられていたため、沿道には日本国旗の掲揚は見られません。
このアジア競技大会の成功は、復興した敗戦国日本の国際大会の開催能力を示し、1964年東京五輪の決定につながったと言われます。
左から
・第3回アジア競技大会聖火リレー 1958年4月 0000108863/042941
・第3回アジア競技大会聖火リレー 羽地村 1958年4月 0000108862/042492

左から
・第8回九州各県対抗陸上競技大会 選手団200人来沖 1960年11月4日 0000108872/045222
・第8回九州各県対抗陸上競技大会 名護 リレー 1960年11月6日 0000108877/046681

1960年11月、名護で開催された第8回九州各県対抗陸上競技大会
沖縄の公式の場で初めて日の丸が掲揚され、観衆に感動を与えました。

左から
・国土美化オリンピック聖火リレー大行進 1963年10月9日 0000108725/003988
・国土美化オリンピック聖火リレー大行進 1963年10月9日 0000108725/003975

1963年10月に行われた「国土美化オリンピック聖火リレー大行進
美しい環境で聖火を迎えようという呼びかけでした。日の丸の掲揚はまだひかえめです。

Ⅲ1964年9月7日、台風のために1日遅れで聖火が那覇に到着

 1964年8月21日、聖火はオリンピック発祥の地ギリシャのオリンピアで採火され、22日にアテネを出発しました。世界各国11の中継地を経て9月6日に沖縄に到着する予定でしたが、台風のため香港で足止めとなりました。
9月7日正午、聖火を乗せた飛行機「シティ・オブ・トウキョウ」号が1日遅れで台北から那覇に到着。聖火を沖縄で待っていた組織委員会の与謝野秀事務総長は「沖縄は日本の国土であるから、聖火の日本最初の上陸地点である。と同時に、また本土とまったく同じというわけにもいかないので、外国コースの終着点でもある」と述べました。
盛大な聖火歓迎式典が挙行され、「沖縄があたかも日本に『復帰』したかのような喜びにわきかえった」と報道されたように、重苦しい米軍支配を忘れる祝祭的時間が始まりました。

・RG319: 陸軍参謀本部文書 (00023-009) Olympics, 1964. 0000106051

1962年8月18日付で東京オリンピック組織委員会が発表した聖火リレー概略において、外国ルートの最後に Naha, Okinawa と記載されました。このルートはさまざまな事情により変更となり、聖火の沖縄入りも当初はソウルからの予定でしたが、1964年の本番では台北から運ばれることになりました。
左から
・与謝野秀事務総長記者会見 1964年9月6日 0000108745/009928
・五輪旗と飛行機 1964年9月7日 0000108746/010003
・奥武山陸上競技場 歓迎の門 1964年9月7日 0000108746/010098

・オリンピック東京大会聖火沖縄リレー式典要項 日付なし
【琉球政府文教局文書/社会体育に関する書類 1964年度 02 保健体育課 R00097850B】

 聖火が沖縄に滞在する期間中、いくつもセレモニーが設定されました。この文書には①聖火が到着する那覇空港での式典、②奥武山陸上競技場での式典、③奥武山から嘉陽へ出発する際の式典、④嘉陽から奥武山への到着式典、⑤奥武山から那覇空港へ出発、⑥那覇空港を出発する際の式典の、6つの要項が綴られています。
このほか、聖火が一泊した現・名護市の嘉陽でも、現地関係者が盛大な式典を挙行しました。

Ⅳ拍手と歓声の中、日本国旗掲揚

 午後1時、4万人が詰めかけていた奥武山陸上競技場に聖火ランナーが入場しました。ファンファーレの音もかき消す拍手と歓声に包まれて聖火台に火が点り、セレモニーが始まりました。
高らかに「君が代」が吹奏される中を日本国旗が掲揚されました。日本国旗掲揚は1964年の沖縄ではアメリカのきびしい制約を受けていました。米軍占領直後は日本国旗掲揚も国家斉唱も全面禁止でしたが、1952年には「個人の家屋や政治的な意味をもたない私的な会合における日本国旗の掲揚」が許され、1961年には法定の祝祭日に限ってようやく公共建物にも日本国旗掲揚を認めたところでした。
聖火リレーの日程は「法定休日」ではなく、日本国旗掲揚の許される日ではありませんでした。にもかかわらず、「聖火を日の丸で迎えよう運動」が活発になり、聖火リレーの沿道、中継地点や学校前、あらゆる建物を、日の丸で埋め尽くそうとしていました。沖縄の若者たちが着用するゼッケンに輝く五輪のロゴと日の丸に感動する人たちもいました。

左から
・奥武山陸上競技場 走者 1964年9月7日 0000108741/008708
・奥武山陸上競技場 走者 1964年9月7日 0000108746/010066
・奥武山陸上競技場 国旗掲揚 1964年9月7日 0000108746/010061

左から
・奥武山陸上競技場 歓迎エキシビション あいさつする大田行政主席 1964年9月7日 0000108741/008665
・奥武山陸上競技場 歓迎エキシビション 地ハーリー 1964年9月7日 0000108741/008675

左から
・行政主席のあいさつについて 1964年9月3日決裁文書
【琉球政府文教局文書/社会体育に関する書類 1964年度 02 保健体育課 R00097850B】

行政主席が聖火の歓迎式典で読み上げるメッセージの草稿です。多くの加筆修正のあとが確認できます。

・聖火トーチ 個人蔵
・正走者のユニフォーム 個人蔵

・海軍軍政府布告第2号 1945年「戦時刑法」

・琉球列島米国民政府布令改正第26号 1952年4月28日 「国旗の掲揚」

・ Memorandum of Conversation: The Ryukyu Islands. June 22, 1961.(会談記録:琉球列島 1961年6月22日)【国務省文書 General Records of the Department of State, Central File, 1960-63 Box No.2176 Folder No.1 0000111462】

21日に行われた池田首相とケネディ大統領の会談で、大統領は、国旗掲揚が沖縄住民の「復帰」圧力を強めるかしずめるか、どちらだろうと尋ね、首相は、国旗掲揚は琉球の状態を安定させるのに役立つと大統領に助言したことが記録されています。

・国旗掲揚に関する請願 1952年5月7日【琉球政府文教局文書/国旗掲揚に関する請願 1952年5月7日 沖縄教職員会 0000062782】

沖縄教職員会は「完全に日本復帰が実現した暁(あかつき)に、日本国民としての魂の空白をつくること」のないよう、機会あるごとに日の丸を掲揚することが必要だと、比嘉秀平行政主席にうったえました。

・ 国旗掲揚ノ件通牒 大正三年八月一六日【沖縄県八重山支庁文書/庶務例規 永年 国旗掲揚ノ件通牒 0000016819】

八重山島司から所管内の村長と小学校長あてに発した通牒(つうちょう)。「本県の現況は、国旗を掲揚する者が極めて少ない、帝国臣民の道徳を振興するために、公職に従事する者が率先して範を示し、一般人民もあまねく国旗を掲揚するよう懇切に指導すべきとの指示を伝える」という内容です。

Ⅴ聖火は沖縄島を走る 南は糸満から北は久志・嘉陽、塩屋まで

 奥武山陸上競技場では、歓迎式典に引き続き壮大なエキシビションが行われました。午後9時まで聖火台で燃え続けた聖火は安全灯に移され、琉球政府庁舎内の行政主席室で沖縄での最初の夜を過ごしました。
1964年9月8日、聖火は那覇を出て南へ向かいました。糸満、具志頭を回ってから、富里―新里―与那原―西原と沖縄島東海岸を北上し、知花―安慶名―栄野比―石川―金武―宜野座を経て、久志村(現・名護市)嘉陽を目指し、聖火ランナーは走り続けました。聖火が一泊した嘉陽では盛大な式典が行われました。
9日早朝、東京オリンピック組織委員会は台風による日程の遅れを取り戻すため、聖火を分火して鹿児島へ先発させました。沖縄に残った方の聖火は、予定どおり嘉陽から塩屋へ回って西海岸を南下、名護、恩納、嘉手納―コザ―普天間から一路首里へ。山川から下って国際通りへ、そして再び奥武山陸上競技場に戻りました。11日午後、奥武山陸上球技場から那覇空港までの最後のリレーの後、聖火は空路で沖縄を離れました。
こうして247.1kmの聖火沖縄島一周が終了しました。リレー走者の数は、正走者・副走者・随走者合わせて3,473名。沖縄戦から19年後に訪れた歓喜の5日間が終わりました。

・東京オリンピック序曲 聖火リレーコース図【琉球政府計画局広報課発行/「琉球のあゆみ」 1964年8月号 0000113892】

実際の到着は台風のため一日遅れ、9月7日になりました。
左から
・沖縄島南部 1964年9月8日 0000108746/010033
・糸満 1964年9月8日 0000108742/008816
・具志頭 1964年9月8日 0000108742/008861

左から
・沖縄島北部 1964年9月9日 0000108743/009237
・沖縄島北部 1964年9月9日 0000108743/009320
・沖縄島中部 1964年9月8日 0000108742/008974

左から
・久志村嘉陽 聖火宿泊碑前での式典 1964年9月8日 0000108742/009074
・久志村嘉陽 聖火宿泊碑前での式典 点火 1964年9月8日 0000108743/009140
・撮影地不明 1964年9月8日 0000108742/008951

左から
・沖縄島中部 1964年9月8日 0000108742/008998
・主席室 聖火と大田行政主席 1964年9月8日 0000108742/008801
・宜野湾 1964年9月9日 0000108744/009386

左から
・沿道の人々 1964年9月9日 0000108743/009330
・那覇市内 沿道の人々 1964年9月9日 0000108744/009445
・那覇市内 沿道の人々 1964年9月9日 0000108744/009461

・国務省文書 (00023-009) Olympics, 1964. (オリンピック、1964) 0000106051 

 米軍のプレス・リリース(1964年9月8日付)。嘉陽での聖火宿泊にあたって、キャンプ・シュワブが地元住民と協力して関係者の宿泊のために200人収容のミニオリンピック村を設営すること、基地内の将校クラブが夕食を提供することなどを伝えています。

Ⅵ米兵が日の丸を毀損

 聖火が沖縄に到着した9月7日、コザ(現・沖縄市)センター通りの街灯柱に掲揚された日の丸を、米兵3人が引きずりおろし破って踏みつけ、現行犯逮捕されるという事件が起こりました。
ワトソン高等弁務官は徹底調査と犯人の処罰を約束し、米大使館を通して日本政府へ陳謝すると発言しました。 この「器物損壊事件」を、沖縄教職員会や祖国復帰協議会は「日本国家への侮蔑」として激しく反発し、米軍への抗議を続けました。

・A Request for the Raising of the Rising Sun Flag in Schools. September 30, 1964.  (学校に日章旗掲揚の要請 1964年9月30日)
・Concerning Theft and Damage to Japanese Flags Displayed to Welcome the Sacred Torch. September 24, 1964. (聖火歓迎のため掲げた日本国旗の窃盗および損壊について 1964年9月24日)【琉球列島米国民政府渉外局文書/Designs, 1962-1964. Flag and Others. U81100143B より 】

沖縄教職員会の屋良朝苗会長と沖縄県祖国復帰協議会の喜屋武真栄会長がそれぞれワトソン高等弁務官にあてた要請書。教職員会は、米兵の日の丸毀損を「われわれの国家に対する侮蔑」だと抗議し、復帰協は聖火リレー以後、13件19枚の日の丸が盗難・破損されたと伝えました。

・ Pamphlet 360-10, 1 Nov. 65. Army Information, Orientation: Flying the Japanese Flag and United States-Japan Relationships. 【琉球列島米国民政府広報局文書/Flag Holidays. 0000044938】

USARYS (U.S.Army, Ryukyu Islands) が1965年11月1日付で配布した軍人向けパンフレット。日米間の友好関係のために「琉球列島におけるすべてのアメリカ人の行為は、日本国旗へ敬意を払おうという意欲を反映するものでなくてはならない」と説きました。当館元館長の宮城悦二郎は、「当初は施政権侵害のシンボルと米側の目に映っていた日の丸は、ここにきて日本の保守勢力の安定強化と日米協力体制作りの手段とみられるようになった」と分析しました。