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あの日の沖縄

1954年6月19日 琉球政府計画移民第一陣269人がボリビアへ出発

 當山久三のあっせんで1899年(明治32)12月5日にハワイ移民を送り出して以降、沖縄は日本国内でも有数の移民送出県となりましたが、第二次世界大戦を境に移民は途絶えました。
 戦後の移民は、1948年(昭和23)のアルゼンチンからの呼寄から再開しました。琉球政府は大規模なボリビア移民事業に着手し、1954年(昭和29)6月19日、第一次計画移民団269人がボリビアに向けて那覇港を出発しました。この時の様子が米軍が撮影した広報映像に残っています。

『琉球ニュース No.6』より「南米ボリビアへ移民団出発」
制作:琉球列島米国民政府情報教育部[2分45秒]白黒/有声【0000065868】
 1945年(昭和20)の米軍上陸以降、沖縄では広大な土地が米軍用地として接収され、農地や宅地を失った住民の生活は困難をきわめました。加えて急激な人口増加がさまざまな社会問題をもたらし、沖縄群島政府は「沖縄の経済的自立の要因は過剰人口の対策がその基盤となる」との認識から、海外移民を推進する方針を固めました。

  

The Okinawans in Latin America: SIRI Report No.7  
1954年(昭和29)8月刊【0000029684】
 スタンフォード大学のJ.L.ティグナーは米陸軍の委嘱により1951年から52年にかけて南米諸国の沖縄移民の実態を調査しました。その結果を基に、戦後の移民送出の可能性を論じ、この提言は計画移民事業の基礎となりました。
 この方針を引き継いだ琉球政府は、ボリビア開拓移民に活路を求め、移民使節をボリビア現地や米国ワシントンD.Cに派遣して、移民送出の準備を進めました。

ボリビア農業移民市町村別集計 1954年度   【R00054231B】
 ボリビア移民は、居住地の市町村が審査のうえ推薦した者の中から、さらに琉球政府が選考して決定しました。この表は市町村に申し込みのあった人数を集計したもので、400人の募集に対し、4,137人が応募したことがわかります。

南米ボリビア農業移民募集要綱    1954年3月【0000032721】 
 農業移民にはボリビア政府から一家族あたり50町歩の土地が配分されることになっていました。「身体強健、志操堅固、開拓意欲旺盛で農牧業に従事でき」、「永住の目的をもって渡航しうる者」などの資格要件が示されています。

 第一次移民団は1954年(昭和29)8月6日にリオ・デジャネイロ港に到着し、陸路でボリビア・サンタクルス州の「うるま移住地」へ向かいました。この年、第2陣も含めて400人の移民が入植しました。原生林の中にある「うるま移住地」では12月に原因不明の伝染病が発生し15人が死亡しました。移民たちはこの移住地を放棄して移動を重ね、1956年に定住の地を定めてコロニア・オキナワとしました。

第1回 ボリビア開拓士慰問運動趣意書 1955年(昭和30)1月25日0000030694】
 現地の過酷な生活を案じて、沖縄では慰問運動がおこりました。

 その後1969年(昭和44)の第19次移住まで、合計3,231人が琉球政府計画移民としてボリビアに入り、第2コロニア、第3コロニアが形成されていきました。現在のコロニア・オキナワは大豆の生産で知られる豊かな農産地として発展しています。