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琉球政府文書

1946~49年の往復文書(2)軍事基地と住民生活

1946~49年の「対米国民政府往復文書」(通称、往復文書)から、米軍基地と住民生活とのかかわりを示す文書を紹介します。

基地に奪われた土地

「鉄の暴風」とも呼ばれた沖縄戦を生きのびた住民たちは、米軍による土地接収や軍事演習など、軍隊や軍事基地が存在するがゆえの困難に、引き続き直面することになります。

沖縄戦の最中から、米軍は住民たちを収容所に収容する一方で、広大な土地を接収して使用していました。土地を奪われた住民たちは、収容所を出ても郷里に帰ることができませんでした。『対米国民政府往復文書 1946年 受領文書』(資料コードR00165446B)から、旧北谷村と旧那覇市の状況がうかがえる文書を紹介します。

1946年4月20日付の下の文書は、旧北谷村民の代表者らが軍政府に帰村を陳情しているものです。米軍基地が集中していた北谷村では、村民の居住(帰村)許可が下りていませんでした。

  

「沖縄人の主食」(staple food)である米の栽培やサツマイモの植え付けをいま行わなければならないこと、各地区では耕作地が狭小なため食糧不足が深刻であることなどが 訴えられています。

左の文書「Relief for the Naha People Residing within Ginoza District – A Petition for」は、宜野座地区に住む旧那覇市出身者についての陳情です。

旧那覇市出身者のうち、特に困窮していた宜野座地区在住の労働可能な者を、那覇地区の軍作業に参加させるよう、沖縄民政府知事の志喜屋孝信が軍政府副長官に要請しています。

旧那覇市民のほとんどは、「商工業労働者および俸給生活者」(commercial or industrial laborers and wege-earners)であるため、他村の人びとよりも、とくに困窮が激しいことが強調されています。

なお、上の文書の日本語原文にあたる「宜野座地区在住の那覇市民救済に関する請願書」が、『沖縄民政府当時の軍指令及び一般文書 5-1 1946年 諮詢委員会から沖縄民政府まで文書及びメモ』(資料コードR00000456B)に収められています。宜野座地区の住民からの陳情書も添付されています。

 

激しい軍事演習

土地を接収されただけでなく、住民たちは、沖縄戦の終結後も日常的に行われる軍事演習にも翻弄されます。

1948年5月17日付の左の文書「Firing Ranges and Danger Areas」(『対米国民政府往復文書 1948年 受領文書』資料コードR00165450B)は、中城・牧港・那覇・知念などの射撃場で、陸軍が実弾演習を行うことを通告したものです。「many American Army Units on Okinawa will begin practice  rifle firing」とあります。

また、実弾演習の日時や場所については、軍の司令官から地元住民に通知することはできないとし、沖縄の全紙を通じて告知するよう求めています。

 

この文書には和訳も付いています。「Firing Ranges」は「射的場」、「Danger Areas」は「危険区域」と訳されています。

また、1949年夏には、空軍第20軍による発射演習が行われ、「Danger Area」(危険区域)への立ち入りが禁じられました。

左の文書「Firing at 20th Air Force Range Number 7 (Bolo Point)」は、1949年7月7日付で、沖縄民政府知事に宛てられたものです。

7月11日から15日の「日中」(daylight hours)、「すべての人や車両、飛行機」(All personnel, vessels and aircraft)に対して、「危険区域」に立ち入らないよう求めています。

 1949年8月8日付の左の文書「20th Air Force Range Number 7 – Bolo Point」によると、8月12日から20日にかけても、同様の演習が行われたようです。

『対米国民政府往復文書 1949年 受領文書』(資料コードR00165451B)

 

米軍基地と住民

軍政府を含む米軍と住民たちとの間には、圧倒的な力の差が存在しましたが、そうしたなかでも、人びとがしたたかに生活を営んでいた様子がうかがえる文書を紹介します。

1946年12月19日付の下の文書「Improper Use of Motor Vehicles」は、幹線道路の交差点や交番前などで、住民たちが“ヒッチハイク”をしている状況を、軍政府が問題視しているものです。

軍政府は、こうした「ヒッチハイカーたち」(hitch-hikers)が原因でトラックの到着が遅延していること、さらに沖縄民政府の警察が、トラックを停止させて“ヒッチハイカー”を拾わせていることを指摘しています。

軍政府副長官のクレイグは、「車両の不適正な使用を是正する措置を直ちに講じる」(institute steps immediately to correct this improper use of vehicles)よう沖縄民政府知事に命じました。

『対米国民政府往復文書 1946年 受領文書』(資料コードR00165446B)

 

次に紹介する一連の文書は、軍の輸送管から、住民が水やガソリンなどを抜き取っている状況を、軍政府が取り上げたものです。

まず、1947年10月1日付の下の文書「Illegal Tapping of Water, Gasoline and Oil Lines by Okinawans」(『対米国民政府往復文書 1947年 受領文書』資料コードR00165448B)は、牧港地区およびコザ地区付近の住民による抜き取り行為を問題視しています。

軍政府は、油・ガソリンや水は「占領軍の業務にとって不可欠の物資」(critical items in the operation of the occupation forces)だとして、「違犯者を逮捕するための迅速な措置」(immediate steps to apprehend these violators)をとるよう求めています。

また、抜き取り行為は「heinous offence」(重大な違反)とみなされることを、あらゆる方法で住民に告知することも求めています。

しかし、住民による水やガソリンの抜き取りは、この後も続いたようです。同種の軍政府の文書が、1948年と49年にも確認できます。

1948年7月13日付の文書では、上の文書を参照しながら、水や油、ガソリンの「盗難」(thefts)が続いているとし、「違反者を逮捕するための努力を2倍にする」(redouble your efforts to apprehend violators)よう沖縄民政府知事に求めています。

『対米国民政府往復文書 1948年 受領文書』(資料コードR00165450B)

 

さらに、1949年1月31日付の文書によると、壺屋や真和志でも、軍の輸送管に対する不正行為が行われていたようです。

 

対米国民政府往復文書 1949年 受領文書』(資料コードR00165451B)

これらの文書からは、交通の手段や物資が不足するなかでも、軍の資源を活用しながら、たくましく生活していた人びとの様子がうかがえます。