琉球政府文書

幻の那覇競輪

往復文書から1952年の競輪(Bicycle Racing)の実施計画に関する文書を紹介します。

『対米国民政府往復文書 1952年 発送・受領文書』(R00165851B)所収の「Proposed Bicycle Racing Project of Naha City」は、那覇市が競輪を行うことについて、琉球臨時中央政府・比嘉秀平主席が米国民政府に提案している1952年3月12日付の文書です。

現在の沖縄には存在しない競輪を実施しようとする計画が、1952年当時にあったのです。

 

競輪計画の背景

「Petition」(陳情書)によると、那覇市で競輪を実施しようとする計画は、比嘉秀平の日本視察旅行に端を発しています。

比嘉は、沖縄の復興状況が日本に比べて相当な遅れをとっており、那覇市の一般歳入が復興・再建計画に充てるには不十分であることから、日本本土において公益に多大な貢献(a great contribution toward the public interests)をしている競輪に注目しました。競輪によって那覇市の新たな歳入源を開拓したいと考えたのです。

また、ここでは、競輪用の機材や技術は日本から輸入するものとされ、「沖縄競輪株式会社」(Okinawa Bicycle Racing Co.)(仮称)を設立して輸入事業を担わせ、「日本競輪株式会社」(Japanese Bicycle Racing Co.)と契約することが計画されています。日本の競輪業界をまきこむかたちで、競輪事業を実施しようとしていたことがうかがえます。

 

競輪計画の内容 

「About the Outline of  Bicycle Racing Project」から競輪計画の内容を紹介します。

まずは、競輪場の建設に必要な資材やコストについてです。

「(1)Outline of Construction」では、500mコースの走路(Runway Concrete 500 meter course)、銀行(Bank)、チケット売り場(Ticket Office)、自転車修理場(Bicycle Repairing yard)といった建設予定の施設や設備が列挙されています。

「(2)Estimate of Necessary Materials」では、木材(Lumber)やセメントなど、必要となる資材の見積りが記されています。

そして、「(3)Total Expense for the Construction of Necessary Structures」には、資材費と人件費をあわせて2,400万円あまりが必要とあります。

 

次に、神奈川県の川崎競輪場の事例を挙げながら、収益の見積りや使途が示されています。

川崎競輪場の1949年の入場者数(Number of Visitors)は約39万人で、勝者投票券(Winner’s Pool Ticket)の売上げは約4億4千万円(B円)でした。

1950年では、それぞれ約91万人と約5億8千万円(B円)となっています。

競輪事業で得た収益については、大部分を復興計画や貧しい暮らしの改善(the  rehabilitation project and the improvement of  living of the humbler classes)に充てるとしています。

川崎競輪場の場合は、住宅、学校、港などの建設に充てられたとあります。

売上金の配分は、グラフを用いて説明されています。

売上金の75%は的中者へ払い戻されます。残り25%の内訳は、事業運営費(12%)、那覇市の収益(5%)、運営会社の収益(5%)、琉球臨時中央政府への税金(3%)となっています。

また、この配分率に基づいて、那覇市の収益は81万円と見積られています。

 

幻に終わった那覇競輪

この文書が作成された翌年の1953年8月20日、「自転車競技法」(1953年立法第41号)が公布されましたが、4年後の1957年9月13日に「自転車競技法を廃止する立法」(1957年立法第63号)によって廃止されました。

自転車競技法(『自転車競技法 立法 規則 し-043』R00160734B)

自転車競技法を廃止する立法(案)(『立法に関する書類 1957年 4』R00000925B)

「自転車競技法を廃止する立法」には「現在の社会的、教育的見地よりして住民福祉にも反するものがあると思料されます」とあり、競輪が社会に悪影響を与えるとされたようです。

こうして那覇市における競輪計画は、実現をみることはありませんでした。

 

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