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写真展「USCARの時代」第2回

第2回 図書館~献本運動が支えた文化振興~

1.コンセットに詰まった郷土愛~公共図書館の開館~

民政府構内に開館したばかりの沖縄中央図書館(1947年8月ごろ) 『県立図書館100周年記念誌』より

 沖縄の公共図書館の歴史は1910年(明治43)の県立沖縄図書館(初代館長・伊波普猷)に始まります。しかし、沖縄戦により所蔵していた郷土文献など約3万点は灰燼と化しました。1947年(昭和22)、米軍政府から許可を得た沖縄民政府は、当時民政府のあった佐敷村(現・南城市佐敷)に中央図書館(のちの那覇琉米文化会館)、そして名護、石川、首里の3箇所に分館を立ち上げます。建物は軍払い下げのコンセットや他施設での間借り、蔵書は台湾からの引揚者が持ち帰った数千冊を4館で分け合ってのスタートでした。また、図書寄贈の呼びかけに応じたハワイや本土の同郷者からも書籍が続々と届けられ、戦後住民の精神の拠り所となりました。

 写真は戦後、台湾から引き揚げてきた川平朝申氏から、中央図書館へ寄贈された『歴代宝案』(440年余りに及ぶ琉球王国の外交に関する文書を集めた記録。沖縄戦により原本は焼失)の写本です。川平氏は引き揚げの際、沖縄同郷連合会の友寄景勝氏に旧台北帝国大学(現・台湾大学)所蔵の『歴代宝案』の筆写を依頼します。友寄氏は回顧録『歴代宝案を写す』の中で、「川平さんは灰燼に帰した郷土文化の再建に心を砕き、在台中に貴重な郷土資料を収集して沖縄に持ち帰りたいとの願いのようだった。私は戦後の混沌とした世情不安のなかで、郷土文化の再建によせる熱意に深く心を打たれた」と当時の思いを記しています。友寄氏はペンを置く間も惜しみ、1946年(昭和21)12月の最終引き揚げ直前まで写し続けます。こうして友寄氏は筆写した『歴代宝案』の一部、11冊810枚をはじめ、寄贈された数千冊の書籍を携えて川平氏とともに沖縄へ戻ります。現在、友寄氏が筆写した『歴代宝案』写本は那覇市歴史博物館に所蔵されています。

2.琉米文化会館

 1951年(昭和26)、米国民政府は、占領地における文化政策の一環として、琉米文化会館を設置します。すでに開館していた公共図書館のうち、首里をのぞく3館を米国民政府直轄とし、琉米文化会館としました。琉球政府が発足した1952年(昭和27)、宮古、八重山にも設置され、5つの琉米文化会館が沖縄における公共図書館の中心的な役割を担います。さらに1960年代、琉米文化会館と同じ機能を持つ自治体の文化施設である琉米親善センターがコザ、嘉手納、糸満、座間味に設置されました。『守礼の光』1961年1号には、コザ親善センター設置の理由として地域周辺の人口の多さをあげ「独立した会館を設けて、独自の計画のもとに運営するのが適当と考えられた」との記載があります。
 これら文化会館には、当時としては画期的な開架式書庫が設置され、来館者が自由に本を手に取ることができました。また、遠隔地サービスのための移動図書館を有し、「動く図書館」として本島の隅々へ図書を届けました。1960年代には夜9時半まで開館しており、貸出冊数が無制限でした。また、上映会や展示会、各種講座など様々なイベントを開催し、豊富なプログラムを盛り込んだ読書週間・図書館週間などの行事を展開しました。
 その一方で、琉米文化会館は住民への宣撫的文化拠点という役割を担っていました。様々な琉米親善行事の会場となり、米軍のPR誌『守礼の光』などが会館から各家庭へ無償配布されました。『琉球史料第十集文化編』には「琉米文化会館は一連のプロパガンダ活動において大事な役割を担う」「住民に直接働きかけるという意味において最重要戦略施設」との記述が見られます。

 

琉米文化会館

※クリックすると各地の文化会館の写真がスライドショーでご覧いただけます。

     260CR-37_0011-01(那覇琉米文化会館・崇元寺復元1951)
    260CR-37_0015-01(名護琉米文化会館/1951)
    260CR-37_0009-01(那覇琉米文化会館・崇元寺復元1952)
    260CR-37_0005-01(八重山琉米文化会館・1953)
    260CR-12_0120-01(八重山琉米文化会館)
    260CR-37_0034-01(那覇琉米文化会館・1956)
    260CR-37_0205-01(宮古琉米文化会館・1959)
    260CR-38_0228-01(那覇市与儀の琉米文化会館)・1962)
    260CR-37_0355-03(新・八重山琉米文化会館・1963)
    260CR-37_0417-01(座間味琉米親善センター・1963)
    260CR-37_0427-01(座間味琉米親善センター・1963)
    260CR-38_0047-01(コザ琉米親善センター・1964)
    260CR-38_0110-01(コザ琉米親善センター・1964)

 

活動内容

    260CR-37_0008-01(那覇琉米文化会館の行事・1952)
    260CR-37_0004-01(石川琉米文化会館・1953)
    260CR-34_00355-01(石川琉米文化会館・1953)
    260CR-37_0006-01(名護琉米文化会館/1953)
    260CR-38_0246-01(宮古琉米文化会館)
    260CR-38_0270-01(八重山琉米文化会館の行事)
    260CR-12_0120-01(八重山琉米文化会館)
    260CR-38_0315-01(八重山琉米文化会館の行事)
    260CR-38_0280-01(八重山琉米文化会館・1957)
    260CR-37_0280-01(名護琉米文化会館・内部・1961)
    260CR-37_0175-01(那覇琉米文化会館・1960)
    260CR-38_0198-01(那覇琉米文化会館の様子)
    260CR-37_0046-01(1957)
    260CR-37_0106-01(那覇琉米文化会館・1958)
    260CR-37_0112-01(那覇琉米文化会館・1958)
    260CR-37_0108-01(那覇琉米文化会館・1958)
    260CR-38_0292-01(八重山琉米文化会館・1958)
    260CR-37_0152-01(那覇琉米文化会館・1959)
    260CR-37_0148-01(那覇琉米文化会館・1959)
    260CR-37_0188-01(1960)
    260CR-37_0292-01(那覇琉米文化会館・1961)
    260CR-38_0222-01(1962)
    260CR-34_0356-01(石川琉米文化会館・1963)
    260CR-38_0346-01(宮古琉米文化会館の館外活動)
    260CR-38_0341-01(宮古琉米文化会館の館外活動)
    260CR-38_0315-01(八重山琉米文化会館)  
     260CR-38_0280-01(八重山琉米文化会館) 
    260CR-37_0089-01(浦添村沢岻での館外活動)
    260CR-38_0175-02(那覇琉米文化会館の展示・1968)
    260CR-38_0059-01(那覇琉米文化会館・1964) 
    260CR-35_0489-03(那覇琉米文化会館・1971)

 

読書週間(復帰まで19回開催されました)

    260CR-38_0210-01(1963年11月)
    260CR-38_0244-01(1963年4月)。
    260CR-38_0023-01(1963年4月)
    260CR-38_0202-01(1963年11月)
    260CR-38_0169-01(1964年10月)
    260CR-38_0063-01(1964年4月)
    260CR-37_0501-02
    260CR-37_0350-02(1970年7月)

(260-1773) TVウィークリー/第10回読書週間/無声
※クリックすると1961年の第10回読書週間の動画がご覧いただけます。

 日本復帰後、全ての琉米文化会館は日本政府が買い上げ、所在自治体へ無償で引き渡されました。唯一政府立図書館として残った首里分館は乏しい政府予算の中で移転や間借りを繰り返し、関係者や地域住民の手によって守られながら現在の県立図書館に至ります。   

 

3.琉球大学図書館

 

宝くじの購入を呼び掛けるポスター(画家で、当時学生だった安次富長昭さんがデザイン)と、景品としてついてきた鍵(右)『琉球大学附属図書館 びぶりお 2005年1月』より

 米軍府は1950年(昭和25)5月、沖縄初の大学として首里城跡に琉球大学を設置しました。附属の図書館は木造瓦葺平屋建て、米軍やハワイ県人会から寄贈された約3万冊の蔵書で開館しました。まもなく害虫被害や書庫の破損が問題になり、1952年(昭和27)、初代学長の志喜屋孝信氏の退官を機に、その業績を記念する新しい図書館建設計画が持ち上がります。資金造成のため、琉米親善委員会主催で宝くじを発行することとなり、1954年(昭和29)4月、「幸運の鍵」という名称の宝くじ22万本が1本1ドルで販売されました。鍵は(知恵の)扉を開く、という意味合いからモチーフとなりました。
 1等は賞金1万ドル(120万B円)、2等から4等まで外国製高級車が当たるという内容は広く住民の関心を集めました。大学職員や学生らが中心となり、街頭などで協力を募りました。翌5月26日に開かれたペリー来琉百年記念祭で抽選が行われ、宝くじの純益金や寄付金が贈呈されました。
 不足分の一部は、当時米国民政府が琉球大学構内に有していた放送局KSARの放送権を民間に譲渡するなどして捻出されました。
 こうして1955年(昭和30)に完成した志喜屋記念図書館は、5階建総タイル張りの近代的なビルでした。住民にも広く資料を解放し、地域に開かれた図書館として親しまれ、1984年(昭和59)に琉球大学が西原町へ移転するまで首里キャンパスのシンボルでした。

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