沖縄サミット2000関係文書
【資料の名称】沖縄サミット2000関係文書
【資料ガイド】沖縄関係資料>個人文書>その他>山田文比古文書
【文書の来歴と概要】
本資料は、沖縄県による先進国首脳会議(サミット)誘致及び開催において中心的役割を果たした山田文比古氏が、その業務に携わった際の手持ち資料をまとめたものです。
資料には、外務省においてサミット開催に携わった経験のある山田氏が、その知見をもとに県幹部向けに作成した、サミットを開催向けた課題を整理した個人メモ、日本政府との交渉に係る記録、政財界関係者からの書簡、FAXなどが含まれます。また、開催前日の深夜にホワイトハウス先遣隊から山田氏の自宅に直接送られ、当日まで稲嶺惠一知事以外に極秘とされた、クリントン大統領の平和の礎でのスピーチ草稿があります。
沖縄県は山田氏のリーダーシップのもとで、1997年(平成9)10月にサミット誘致推進プロジェクトチームを立ち上げ、「サミット誘致基本構想」を策定するなど、本格的に誘致活動に着手しました。同年12月には沖縄県サミット誘致推進協議会を立ち上げ、県内関係機関の全面的な実施・協力体制のもと、全県挙げて誘致にまい進しました。
そのような中、大田昌秀知事による普天間基地の県内移設受け入れ拒否表明により、政府と県の関係は一時的に冷えこみましたが、サミット開催をてこに沖縄の観光・コンベンション産業の高度化、国際化をはかろうとする県内の機運は冷めませんでした。1998年(平成10)7月に沖縄に強い愛着を持つ小渕恵三氏が首相に、同年11月にはサミット誘致を公約に掲げていた稲嶺惠一氏が知事に就任すると、誘致への機運は一層高まりました。沖縄県は1999年(平成11)3月、サミット誘致推進協議会を発展的に解消し、新たにサミット誘致県民会議を設立して、誘致活動を強化していきます。
1999年(平成11)4月に開催が決定した後、県はサミット推進室、さらにサミット推進事務局へと組織を拡充・強化、同年8月にはドイツのケルンに総勢86名からなる視察調査団を派遣するなど、日本初の「地方開催」、「市民参加型」のサミット実現に向けて取り組みました。
これら歴史的なサミット開催の中心にいたのが山田文比古氏で、その歴史的意義を検証する上で貴重な記録です。
【資料の紹介】
文書は「誘致活動から開催決定まで」と「県側行事の準備と開催」の2簿冊。
ケルンサミット調査報告書、サミット誘致要望書、『サミット通信』、山田文比古氏による『外交フォーラム』『Okinawa Convention Newsletter』『外交』『霞関会会報』への寄稿文などのスクラップなどが含まれます。
沖縄サミット2000 [01] 誘致活動から開催決定まで [資料コード:0000264400]
沖縄サミット2000 [02] 県側行事の準備と開催[資料コード:0000264401]
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1999年10月1日付け 山田文比古沖縄県サミット推進事務局長発蔦信彦宛て書簡 1999年7月10日付け 『平和の礎』関係検討会手持ち資料 2000年7月20日付け クリントン大統領スピーチ草稿(2000年7月21日) 【画像】 |
【利用制限】
本資料には、個人情報や著作物が含まれ、一部利用が制限されます。
【公開日】 2025年(令和7)5月20日(火)
【山田文比古 年譜】
1980年(昭和55) | 外務省入省 |
1983年(昭和58) | フランス国立行政学院(ENA)外国人特別課程修了 |
1997年(平成09)02月 | 沖縄県庁知事公室に出向 |
1997年(平成09)10月24日 | 2000年サミット誘致推進プロジェクト班長 |
1999年(平成11)02月03日 | 沖縄県サミット誘致推進プロジェクトチーム班長 |
1999年(平成11)05月07日 | 沖縄サミット推進室長 |
1999年(平成11)06月09日 | 沖縄サミット推進事務局長 |
2000年(平成12)07月 | 沖縄サミット開催 |
同年08月 | 外務省 欧亜局西欧第一課長 |
2003年(平成15 ) | 在フランス日本大使館公使 |
2008年(平成20 ) | 東京外国語大学外国語学部教授に出向 |
2012年(平成14 ) | 外務省を退官し、東京外国語大学に移籍 |
2019年(平成31) | 名古屋外国語大学外国語学部フランス語学科教授に就任 |
【主な参考文献】
(1)稲嶺惠一『稲嶺惠一回顧録 我以外皆我が師』(琉球新報社2011年)
(2)山田文比古「世界の目を沖縄へ、沖縄の心を世界へ」『外交フォーラム』(2000年10月増刊号 都市出版株式会社)
(3)山田文比古「寄稿文 九州・沖縄サミット異聞—沖縄決定劇の舞台裏」『霞関会会報』 859(2017年11月号)