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あの日の沖縄

1958年10月15日 守礼門の復元落成式

 守礼門は、中山門に続く首里城第二の坊門として、第二尚氏第四代の尚清王代(1527~1555)に創建されたと言われています。1933年(昭和8)、「国宝保存法」によって旧国宝に指定されましたが、老朽化が激しく、所有者である那覇市は国庫の補助を受け、1936年(昭和11)10月から8ヶ月かけて解体修理を行いました。しかし、1945年(昭和20)、沖縄戦によって守礼門は基盤、礎石、敷石の一部を残して焼失しました。


戦前の守礼門 1939年4~5月
「沖縄記録写真集」より【0000010813】


沖縄戦によって、瓦礫と化した首里城の城壁。後方に見えるのは首里の町。1945年5月  
米国海兵隊写真資料29 【87-23-4】

 

 戦後、沖縄の文化財は、戦闘中の損傷や米軍人の持ち出し、一部住民による破壊等により危機的状況にありました。民間有志や市町村は、焼け残った文化財の収集や博物館設置に尽力しました。1954年(昭和29)6月には、「琉球政府文化財保護法」が制定され、文化財の指定・保護行政が本格的に始まりました。

 1956年(昭和31)2月、沖縄内の政財界や文化財関係者らは、当間重剛那覇市長(当時)を会長に守礼門復元期成会を結成しました。期成会の趣旨は、琉球王国が理想としてきた「守礼之邦(礼節を重んじる国)」を扁額に掲げていた守礼門を復元し、子々孫々に伝えていくことでした。
 期成会はまず資金集めに取り組み、総工費23,514ドルを琉球政府や那覇市の補助金、琉米親善委員会や海外在住沖縄人、一般住民の寄付金によって捻出しました。
 1957年(昭和32)8月、琉球政府文化財保護委員会が復元工事を受託し、1936年(昭和11)の守礼門解体修理で工事監督を務めた日本政府文部省技官 森政三の指導監督のもと着工しました。
 守礼門柱材を納入する儀式(木曳式)には首里高校生徒・教職員や、期成会会員、文化財保護委員等400名余りが参加しました。また、工事終盤には琉球大学美術部の学生が森技官の指導で楼門の彩色を施す等、復元には多くの住民が関わりました。
 落成式は1958年(昭和33年)10月15日に行われ、当間重剛行政主席や安里積千代立法院議長、仲松恵爽上訴裁判所主席判事、ドナルド・ブース高等弁務官、オルコット・デミング総領事らが出席しました。門の前では、テープカットや功労者への感謝状贈呈が行われ、「御前風」の演奏等、数々の余興が披露されました。


RYUKYUS POSTAGE SOUVENIR PAMPHLET 守礼門復元記念 【0000022987】
 落成式の日に合わせて、琉球郵政庁は守礼門復元記念切手を発行しました。

 

 1958年(昭和34)11月7日、期成会は守礼門が「公共のために保存する記念物及び重要文化財として永く保管」される事を求めて、琉球政府に無償譲渡を申し出ました。同年12月19日、琉球政府立法院は無償譲受を議決し、守礼門は琉球政府が管理することとなりました。


建築物無償譲渡について 1958年11月7日 守礼門復元期成会会長 当間重剛発 行政主席宛
「行政主席施政方針 1958年 その他」より 【RDAE000557】
 琉球政府に譲渡する理由、建築の様式や復元費用などの概要がまとめられています。


「 建造物(守礼門)の無償譲受について議決を
求める件」について(通知)1958年12月20日
立法院議長 安里積千代発 行政主席当間重剛宛
「行政主席施政方針 1958年 その他」より 【RDAE000557】

 


復元後の守礼門
 1963年7月 
 門の向こうに、琉球大学の校舎が見えます。
琉球政府関係写真資料 207 【057456】

 1972年(昭和47年)5月12日、守礼門は沖縄県指定有形文化財に登録され、沖縄の代表的な観光地となっています。