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あの日の沖縄

11月1日 琉球歴史文化の日

 沖縄県では、先人たちが創り上げてきた沖縄の歴史と文化への理解を深め、故郷(ふるさと)への誇りや愛着を感じられる地域社会の形成に取り組むとともに、新たな歴史と文化を県民自らの手で創造していくことを決意するものとして、11月1日を琉球歴史文化の日とする「琉球歴史文化の日条例」を2021年(令和3)3月31日に制定しました。

 

琉球歴史文化の日条例 [令和3年3月31日条例第13号](条文抜粋)

沖縄の先人たちは、長い歴史の中で、祖先への敬い、自然への畏敬の念、他者の痛みに寄り添うチムグクルを育むとともに、古来、アジア諸国との交易を通じて多様な文化を受け入れ、組踊を始めとする芸能や漆器などの工芸、琉球料理や泡盛などの食文化、空手や染物など、多岐にわたり洗練された独自の多様な伝統文化を創り上げてきた。そして、これらの文化を支えに、幾多の世変わりの中にあっても、その都度困難を克服してきた。
令和元年の首里城焼失は、県民のみならず国内外のウチナーンチュに、先人たちが歩んできた歴史と築き上げてきた文化が心のよりどころとして深く根付いていることを改めて気付かせることとなった。
こうした認識のもと、琉球歴史文化の日を定め、先人たちが創り上げてきた沖縄の歴史と文化への理解を深め、故郷への誇りや愛着を感じられる地域社会の形成に取り組むとともに、新たな歴史と文化を自らの手で創造することを図るため、この条例を制定する。
(目的)
第1条 この条例は、琉球歴史文化の日を設けること等を定め、県民が、沖縄の歴史及び文化への理解を深めるための施策を効果的に推進することにより、沖縄の文化の継承と発展を図り、もって心豊かな県民生活及び文化的で活力ある社会の実現に寄与することを目的とする。 

 

 琉球歴史文化の日が制定される契機となったのが、2019年(令和元)10月31日に発生した首里城火災でした。首里城の焼失は、沖縄県民のみならず国内外の多くの人々に衝撃を与えました。
 当館所蔵資料から首里城関連資料をいくつかご紹介します。

 

戦前の首里城正殿

 

「ルヴェルテガ少尉撮影首里那覇写真」【0000206567】 原版所蔵者:Hervé Bernard, France

資料紹介>ルヴェルテガ少尉撮影首里那覇写真

 この資料は、1877年(明治10)5月にフランス海軍の巡洋艦船で来琉したルヴェルテガ少尉によって撮影された写真です。当時の首里城正殿、瑞泉門、崇元寺石門が撮影された貴重な資料です。

 

 

「首里城正殿」1936年(昭和11)10月27日 河村只雄撮影【T00022432B/7-55-21】
資料紹介「河村只雄文書」>沖縄本島及び周辺離島の風物

 河村只雄[1893-1941]は、山口県生まれの社会学者です。『家族の起源』や『南方文化の探究』、『続南方文化の探究 薩南、琉球の島々』等の著作で知られています。河村は1936年(昭和11)から1940年(昭和15)の間に5回、沖縄の島々の現地調査を行い、日記や写真、映像に記録しました。

 

瓦礫と化した首里城の城壁

 首里城の地下には、日本軍が大本営直轄の沖縄守備隊として創設した第32軍の司令部壕がありました。

 

「瓦礫と化した首里城の城壁」1945年(昭和20)5月 米海兵隊写真資料29【87-23-4

 

 

首里城跡戦災文化財復元に関する要請書

 

「首里城復元関係資料 戦災文化財復元要請関係資料」1971年(昭和46)4月5日
吉田嗣延文書【0000095652】

 琉球政府文化財保護委員会が日本政府に提出した要請書。文化財復元修理における本土との格差是正や沖縄の日本復帰記念事業の一環として、日本政府が工事を全額負担して、首里城正殿、歓開門、久慶門の復元に着手することなどを求めています。

 

 

「首里城復元関係資料 戦災文化財復元準備計画関係資料」1973年(昭和48)7月15日
吉田嗣延文書【0000095870】

 首里城跡文化財復元期成会は、屋良朝苗沖縄県知事(当時)を会長に1973年(昭和48)7月に結成し、各関係省庁に首里城正殿復元と史跡記念公園地区整備の早期実現を訴えました。また、首里城復元の世論統一を図るとともに、県、琉球大学、那覇市との話し合いも進めました。

 

首里城復元早期実施についての要請

 

「首里城復元期成会 1981年(昭和56)6月30日」吉田嗣延文書【0000096142】

 1981年(昭和56)6月、民間主導型の組織として新たに首里城復元期成会が結成されました。この要請では、首里城復元を第2次沖縄振興計画に組み込み、1987年(昭和62)の国体開催に間に合わせるよう沖縄開発長官に求めました。正殿復元と歴史博物館の設置は、観光資源開発となり、沖縄経済の振興に大きく寄与するとしています。

 第2次沖縄振興開発計画が首里城一帯の整備を明文化したのを機に、1984年(昭和59)には沖縄県が「首里城公園基本計画」を策定し、首里城跡を中心に龍潭、円覚寺跡などの範囲を含む約18ヘクタールを歴史的公園として保全・整備を図るとしました。1986年(昭和61)には、首里城公園のうち首里城跡の約4ヘクタールの区域を国営公園区域とし、その周辺区域は県営公園区域として整備することが閣議決定され、復元整備事業がスタートしました。

 

戦災文化財復元計画

 
 

「第2次沖縄振興開発計画「戦災文化財復元計画」沖縄開発庁提出資料及び折衝経過関係資料綴」【0000212946】

 本資料は、第2次沖縄振興開発計画において進められた「戦災文化財復元計画」に関する資料です。琉球大学が首里から西原に移転した後の、首里城跡等の整備に関する文書が含まれます。

 1950年(昭和25)5月、米国民政府(USCAR)によって首里城跡地に設置された琉球大学は、1977年(昭和52)から現在のキャンパスへ移転を始めました。本資料によると、1982年(昭和57)の3月末には、学生寮をのぞいて首里からの移転が完了する見通しとなっていたようです。琉球大学の跡地は、首里城跡の保存整備や戦災文化財の復元整備、首里城公園の整備や沖縄県立大学の敷地として利用される計画となっており、その後の沖縄振興開発計画において実現することとなりました。

資料紹介>沖縄振興開発計画の策定に関する文書

 

 

「首里城跡に建つ琉球大学」1963年(昭和38)6月 琉球政府写真資料010【002502】

 

 

那覇市広域都市計画公園に関する意見書

 

「那覇市首里真和志自治会会長・首里城公園事業に係る住民の会会長」1987年(昭和62)2月 沖縄県文書【0000114274】

 沖縄県の首里城公園計画は、地元住民50戸余、約80世帯の立退きを伴っていました。立退き後は観光バスの侵入道路や街路の景観整備などが予定されており、住民生活を犠牲にして観光産業の活性化を優先しているとして、地元住民の反発を招きました。

 

首里城公園 計画予想図

 

「都市計画に関する書類 那覇広域都市計画公園の変更 5,5,6首里城公園 沖縄県」1987年(昭和62)頃 沖縄県文書【0000114274】

 1986年(昭和61)、沖縄県は、那覇市が広域都市計画公園としていた龍潭公園の計画を廃止し、首里城公園計画を追加(実質的に編入)する変更計画を協議しました。那覇市は、住民の立退きを伴う都市計画や道路計画の追加も含めて承認しつつ、地元住民の合意形成を図る必要があると述べています。この計画図はこれら一連の協議文書と共にファイリングされており、作成者が県か那覇市か明らかではありませんが、当初の計画の概要がわかります。

 

 

首里城火災映像

「首里城火災映像」2019年(令和元)【0000164756】 
撮影:石崎雅彦 時間:5時間28分

 本映像は、石崎雅彦氏が2019年(令和元)10月31日2時50分頃から11月1日16時頃にかけて城外から断続的に撮影した首里城火災の記録映像です。燃え落ちる首里城正殿や周辺への延焼、消火活動の様子が映し出されています。

 

【参考引用文献・関係先リンク】

・沖縄県HP「【公式】琉球歴史文化の日特設サイト|沖縄県

「琉球文化ルネサンス」に関する万国津梁会議」提言書 令和5年3月 琉球文化ルネサンスに関する万国津梁会議委員会

『沖縄県公文書館だより Archives第58号』(2020年2月発行)「首里城復元に関する文書」

・沖縄県公式首里城復興サイト「首里城がつなぐ過去から未来へ

・沖縄県HP「首里城火災に関する再発防止等報告書の掲載について