沖縄県公文書館 > 資料紹介 > あの日の沖縄 > 1944年8月22日 学童疎開船「対馬丸」が撃沈される

あの日の沖縄

1944年8月22日 学童疎開船「対馬丸」が撃沈される

 この日の午後10時12分頃、学童疎開船対馬丸が鹿児島県・悪石島の北西約10㎞の地点を航行中、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃により、沈没しました。対馬丸に乗船していた疎開学童、引率教員、一般疎開者、兵員ら1,788人のうち、疎開学童784人を含む1,484人が死亡しました(2018年8月22日現在氏名判明分)。
 救助された人々は、対馬丸が撃沈された事実を話すことを禁止されました。死亡者や生存者に関する詳細な調査も行われず、沖縄に残された家族は正しい情報を伝えられませんでした。

集団疎開の背景

 日本軍は、1941年(昭和16)12月8日にハワイ真珠湾を奇襲攻撃し、米英に宣戦布告してアジア太平洋戦争に突入しました。以後、アジア各地に占領地域を拡大し、東南アジア全域に戦線を張りました。
米軍は、1944年(昭和19)2月に日本の絶対国防圏内にあるマリアナ諸島を攻撃し7月7日にサイパンを占領しました。次の侵攻目標が南西諸島となることが予想されたことから、日本政府は南西諸島の老幼婦女子10万人の疎開(九州へ8万人、台湾へ2万人)を決定し、沖縄県知事に命令しました。沖縄県は現地の日本軍と協議し早急に学童疎開を進めることとし、7月19日に「沖縄県学童集団疎開準備要項」を発令しました。
 すでに沖縄近海には米軍の潜水艦が出没する危険な状況になっており、沖縄・鹿児島間の海域では、対馬丸を含めた疎開船などが米潜水艦の攻撃で沈没し、多くの被害者が出ました。
 当館が米国国立公文書館から収集した「海軍軍司令部長室記録群」の「傍受無線翻訳文及び第2次世界大戦関係雑書、1940年~1946年」の中に、対馬丸に関する記録があります。


「無線傍受翻訳 対馬丸 1944年8月16日」【0000036968】

 米潜水艦部隊は、日本軍の暗号解読に成功し、日本近海を航行する商船、艦船の待ち伏せ攻撃を強化していました。この資料は、米軍が傍受した日本軍の無線の翻訳記録です。対馬丸その他の船舶が「8月16日16時に上海から那覇へ向けて出航する」ことを伝えています。KAZUURA MARU(和浦丸)、GYOOKUU MARU(暁空丸)、そしてTSUSHIMA MARU(対馬丸)の3隻は、船団を組んで8月21日に那覇港を出港しました。

米潜水艦ボーフィン号の対馬丸撃沈に関する報告書は、下記の資料群に含まれています。
米国潜水艦戦時哨戒報告書、1941年~1945年