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米国収集資料

写真展「USCARの時代」第3回

戦後の電気と水事情~ライフラインの復興~

「忘れられた島」から「太平洋の要石」へ

 戦後、本土で復興政策が進む中、沖縄は1949年(昭和24)までの約5年間、米軍から明確な統治政策が図られないまま放置され「忘れられた島」と報じられました。しかし、1949年(昭和24)の中華人民共和国成立や、翌1950年(昭和25)の朝鮮戦争勃発など、極東における国際情勢の急変に伴い「忘れられた島」は米軍にとって軍事的に重要な「太平洋のキーストーン」へと変わります。沖縄の恒久基地化に向けてUSCARは大規模な開発計画を立ち上げ、水道や電気などライフライン整備を始めます。

 

1.船がまかなった電力需要

 沖縄で初めて電気の灯がともったのは、1910年(明治43)12月15日、那覇地域でのことでした。その後大正から昭和にかけて、小規模ながら名護、宮古、八重山にも電灯株式会社が開業します。しかし配電設備は戦争で完全に破壊され、沖縄の電気事業はすべて崩壊します。終戦直後の住民は、石油ランプでうす暗い夜を過ごしていました。1946年(昭和21)末には、米軍から払い下げられた小型発電機などを使って小規模電気業者が一般家庭へ電力を供給し始めましたが、低電力で小さな電球を一つともすのがやっとの状態でした。
 1950年 (昭和25)、米軍は沖縄全島電化計画を打ち出し、浦添村(当時)に牧港火力発電所及び送電系統の建設に着手します。予算総額約710万ドルをかけた巨大プロジェクトでした。
 1954年(昭和29)、那覇市泉崎に電力供給会社として、琉球電力公社がUSCARの一機関として設立されます。米軍の余剰電力は民間にも供給されましたが、住民の需要を満たせる量ではありませんでした。その上、基地拡張と民間地域の電化が進み、電力需要が急速に伸張したことで、牧港発電所は稼働開始から2年で早くも供給に不安が生じます。追加の発電設備として、米軍は1955年(昭和30)に、韓国に係留してあった発電船ジャコナ号(出力2万kw)を、翌1956年(昭和31)には、同インピーダンス号(出力3万kw)を那覇軍港へ曳航し、電力不足へ対応します。
 さらに1967年(昭和42)、発電船インダクタンス号(出力3万kw)が米国フロリダから曳航され、インピーダンス号横に併置されました。1965年(昭和40)、金武村(当時)に金武火力発電所が完成、運転を開始します。
 その後も伸び続ける電気需要に対応しながら、琉球電力公社は、1972年(昭和47)、沖縄電力(初代取締役社長・松岡政保)となり、政府および沖縄県の出資する特殊法人として営業を引き継ぎました。1982年(昭和57)に名護市源河大湿帯点灯を以て本島内における全島電化を達成しました。1988年(昭和63)に沖縄電力は民営化されて現在に至ります。

牧港火力発電所  1954年1月18日[260CR-50_0324-01]

発電船ジャコナ号 1964年 3月 2日[006415]

 

 


那覇港に係留されているインダクタンス号(左)とインピーダンス号。ジャコナ号と3隻で当時の全供給電量の25%をまかなった。『今日の琉球』14巻1号(1970年1月)[U00000288B]

 

 

伊平屋村 テレビを見る人々 1961年 2月[048208]

 1959年(昭和34)、本土より6年遅れて沖縄でもテレビ放送が始まるなど、電力需要は増加の一途をたどりました。

 1963年(昭和38)2月 発電船インピーダンス号のドック入りにより、節電のための灯火管制が実施されました。

発電船インピーダンス号の修理にともなう”節電”の呼びかけ『通達文書』[R00015644B]

 

タイトル : 人・時・場所 仲尾次部落電化
羽地村仲尾次/電化/キャラウェイ訪問/記念碑/屋外の水道でヒゲを剃る青年/キャラウェイ視察/キャラウェイを迎えてのセレモニー/電柱/電灯/点灯式/電気開通式/スイッチを入れるキャラウェイ/感謝状贈呈/民家で電気をつける様子/落成式 <無声/白黒>[260-02000]

 

2.水道インフラとダム~水不足からの脱却~

 戦前、沖縄住民は、各家庭でためた雨水や集落の共同井戸の水を生活用水として利用していました。水道施設は那覇市の一部で整備されていましたが、戦争で壊滅的な打撃を受けました。1949年(昭和24)、米軍は基地給水を目的に、本島中部を中心に貯水池やタンク、パイプライン、ポンプ場、浄水場などの建設を始めます。最初の浄水場施設として建設されたのは、嘉手納村(当時)の比謝川を水源とするタイベース(コザ)浄水場でした。米軍はこれらの施設をパイプラインで結び、全島統合上水道を建設し、中南部の軍事施設へ送水しました。また、人口増加に伴う水の需要に応えるため、軍用水を那覇や浦添などの民間向けに振り替えました。
 1958年(昭和33)、USCARは琉球水道公社を設立し、米軍が浄化した水を民間に供給し始めました。水源の開発、改修および浄水の生産を米軍が行い、その飲料水を琉球水道公社が買い受けて各市町村に卸価格で販売するシステムでした。
 米軍は、1959年(昭和34)から瑞慶山(現・倉敷)ダム、金武(現・億首)ダム、天願(現・山城)ダムを次々に完成させました。しかし、人口増加などで水問題は好転せず、1963年(昭和38)の大干ばつの際は206日間の給水制限が行われました。
 こうした深刻な水問題に対応するために、琉球水道公社は1970年(昭和45)に福地ダムの建設に乗り出しました。建設途中で沖縄の本土復帰を迎えたため、建設事業は日本政府に、琉球水道公社の業務は沖縄県へそれぞれ引き継がれました。沖縄一の貯水量を擁する福地ダムは1974年(昭和49)に完成しました。

 業務引き継ぎの大きな変化として、単位の変更がありました。水量、水位、薬品使用量、管圧など、すべて換算表をにらみ、米国の液量単位ガロンを立方メートルに、フィートをメートルに換算しながら作業が行われました。一方で引き継がれたガロンもありました。現在も、県内で売られている牛乳など紙パック飲料の容量が1000mlではなく946ml(1/4ガロン)が主流であるのは、統治時代のなごりです。


タイベース水道システム、浄水場の航空写真  1949年10月10日[05-14-2]

 

 

 給水状況  那覇市国場  1958年12月17日[260CR-40_0376-01]

 

 

那覇市 1961年7月15日[260CR-44_0489-01]

 那覇市の深刻な水不足は、米陸軍工兵隊によるコザ地区のバイパス水道管完成により7月17日以降緩和された。古い16インチ水道管から32インチの水道本管に切り替えるための作業は、兼次佐一那覇市長からの要請にもとづき高等弁務官の指揮により第809工兵大隊が投入されて行われた。バイパス水道管の完成により、那覇市は一日に約200万ガロンの給水が可能となった。(USCAR作成キャプションより)

 


下地町 1964年7月1日 [260CR-44_0671-03]

 宮古島に住む7万の住民は昔から絶えず干ばつに悩まされていた。人々は昔からの古い道具を使って泉や井戸から水を得ていたが、泉が枯れてしまうとその不便は想像に絶するものがあった。しかしながら、今や宮古住民は史上初めて近代的な総合水道を持つことになった。米陸軍工兵隊が作成し、高等弁務官府及び琉球政府との調整によって完成した「マスタープラン」のおかげで宮古住民は飲料水又はかんがいに適した水の恩恵を常時受けることになったのである。この水道工事は来年6月ごろに完成する予定で、総工費120万ドルが費やされる。この水道施設を全島の住民のために有効に運営するため、最近宮古水道管理局が設立された。同管理局は飲料水の管理の他に5ヶ年計画でかんがい工事も行うことになっている。(USCAR作成キャプションより)

 

 石川市美原区に新しい水道施設が完成  石川市 1962年 6月16日[30-16-3]

 

 

宜野座村漢那 1962年9月26日 [260CR-43_0201-01]

 村役場運営の65,000ドルの電力施設と12,900ドルの漢那配水システムの2つの近代的で便利な設備の完成を喜ぶ沖縄北部宜野座村の漢那部落民。9月26日の配水システムの落成式で、蛇口をひねり水を出すエドワード・K・シュルツ副民政官 (右) 。左は宜野座村長浦崎康裕氏。この事業には高等弁務官資金から3,828ドルが助成された。(USCAR作成キャプションより)

 

石川浄水場 石川市 1967年7月18日[260CR-45_0197-01]

 検査室で水質調査する琉球の技師たち。沖縄北部のダムから流れた水は主送水管を通して最近完成した浄水場に送られ、その後沖縄の中南部に供給される。短時間のろ過システムを採用するこの浄水場は、現在建設中あるいは建設予定の新しい給水・送水施設が完成すると、1日あたり最大2,000万ガロンの水を処理することができる。浄水場の建設は建設会社の大城組によって1965年7月に開始され、米国援助プログラムの下で資金提供された287万ドルで完成した。(USCAR作成キャプションより)

 

 

1968年7月15日[260CR-45_0240-04]

 これまでの雨水をためたり井戸を利用する旧態の水事情から、新しい水道システムにより供給される水を歓迎する約400世帯の那覇市安謝の主婦の一人。新しい水道システムは15,000ドルの米国資金により完成した。(USCAR作成キャプションより)

 


福地ダム第二期工事 東村 1970年5月18日
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 沖縄のダムの総貯水量を10倍に増やす総工費1,200万ドルの福地ダム計画第二期及び最終工事が5月18日正式に着工された。沖縄本島北東部、東村の現場での起工式にはロバート・A・フィアリー民政官、屋良朝苗行政主席、大浜博貞琉球水道公社総裁、大城鎌吉大城組社長が出席した。第二期工事は、第一期工事がほぼ完了したのを受けて開始されるもの。両工事とも米国資金で行われる。同水源地は集水面積7,700エーカーで100億ガロンの貯水が可能である。第二期工事は大城組が落札、3月23日契約が行われた。工事はダムの本体工事でダムの高さ260フィート、基底部で幅1,000フィート、頂上部は幅40フィートで、幅39フィート、全長850フィートの道路がつくられる。ダムの体積は220万立方ヤードでアース・ロックでつくられる。100フィート幅の余水吐、全長150フィートの橋がかけられる。第一期工事はアジア・アメリカン会社によって、1969年7月に開始された。これは、全長1,100フィート、直径13フィートの分水トンネル、ダムに通ずる道路、築堤工事用採石場の建設であった。(USCAR作成キャプションより)

 


1971年6月10日
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 写真は与座浄水場の松田全沼さん (左) と琉球水道公社の大浜博貞総裁が南部水道に連結された水道管の給水量を調べているところ。水道公社は先週から統合水道系統を通して南部の43部落と10ヶ所の学校に給水を開始している。同地域の水源は5月23日以来、地元の商社が投棄した防腐剤 (PCP) で汚染されている。(USCAR作成キャプションより))
(補足):沖縄公衆衛生研究所(現沖縄県衛生環境研究所)の調査により除草剤PCPの不法投棄、沖縄本島南部の水源地が有機塩素剤ペンタクロロフェノールに6ppmと高濃度汚染され、水道は給水停止。直接の人体被害はなし。川の死魚あり。健康被害危機管理事例データベースより。

 

屋良朝苗行政主席視察 PCP被害 豊見城〜東風平 湧き水で洗濯する住民 1971年 6月[038330]

 

タイトル : 人・時・場所 弁務官資金 上本部の水道施設/無声[260-00164]

 

3.米軍基地と水の安全性

 ダムの完成で断水の問題はなくなりましたが、近年懸念されているのは、水の安全性です。県の調査により米軍嘉手納基地や普天間飛行場周辺の河川から、有害な有機フッ素化合物PFOS(ペルフルオロオクタンスルホン酸)およびPFOA(ペルフルオロオクタン酸)が高濃度で検出されています。消火薬剤などに含まれる物質で、非常に分解されにくい特徴から環境への残留性および人体への蓄積性が問題視されています。PFOSは、2009年(平成21)の「ストックホルム条約(POPs条約)」において残留性有機汚染物質として国際的に規制されることになりました。これを受けて日本でも2010年(平成22)に製造・使用・輸出入が規制されました。翌年、PFOAも規制対象となりました。2016年(平成28)1月、県企業局は、北谷浄水場の水源である河川などから高濃度のPFOS、PFASが検出されていること、そして嘉手納基地が汚染源と推測されると発表しました。
 国際的に規制が進む中、米国でも、2018年(平成30)12月、米軍のPFOA、PFOSなどを使用を制限する規則が成立しました。
 一方沖縄では、2019年(平成31)4月、京都大学の調査チームが宜野湾市の住民を対象に実施した有機フッ素化合物の血中濃度調査において、全国平均の4倍の数値が出ました。住民不安が高まるなか、在沖縄海兵隊は2021年(令和3)8月、県や住民の反対を押し切る形で米軍普天間飛行場の貯水槽から、PFOS、PFOAを含む水を公共下水へ放出したと発表しました。米軍は、安全な基準値に処理した上での放出としていますが、放出量は明らかにしていません。