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米国収集資料

写真展「USCARの時代」第6回

USCARのアキレス腱と「島ぐるみ闘争」②

琉球民裁判所と裁判移送問題

 ~新ケネディ政策とキャラウェイ旋風のはざまで~

 1960年代初頭の国際情勢は、アジアやアフリカの植民地の多くが独立および国連加盟を果たし、反植民地主義が力を強めていました。一方、沖縄では米軍人・軍属による犯罪が多発していました。傷害、暴行、強盗などの事件が年間約1000件で推移していましたが、琉球警察は捜査権を持たず、加害者側は軍法会議で無罪になったり、アメリカへ帰国して未解決になるケースも少なくありませんでした。
   1962年(昭和37)3月5日、ケネディ大統領は対沖縄新政策(大統領行政命令10713号の改正)を発表しました。日米協力体制での財政援助と、住民自治拡大などの内容が盛り込まれ、軍統治の印象を薄める狙いがありました。しかし、現地沖縄での統治政策に大きな変化はなく、依然として高等弁務官が強権を振るっていました。大統領命令発表後に起こった2つの裁判は、その強硬政策を浮き彫りにしました。沖縄の裁判官たちは、こうした統治は大統領命令に反すると声を上げました。

 

 1.米統治下の琉球裁判制度~二つの裁判所~

 米国統治下の沖縄は、USCARの発する法令、琉球政府・立法院が制定する法令、明治憲法下の旧法令などが併存する「法の雑居」状態にありました。裁判については、琉球民裁判所(治安裁判所、巡回裁判所、上訴裁判所)と、USCAR裁判所が存立していました。しかし、裁判所と法令のいずれにおいても米国側が絶対優位性を持ち、1962年(昭和37)の大統領行政命令により、米国の安全・財産・利害に影響を及ぼす重大事件については、琉球側から米側へ裁判を移送することができるようになりました。1966年(昭和41)6月アルバート・ワトソン高等弁務官は、琉球上訴裁判所において係争中であった2つの事件「友利事件」・「サンマ事件」の裁判権を、同裁判所からUSCAR裁判所へ移送すべしとの命令を出しました。この事件は「友利・サンマ事件」と呼ばれ、米国民政府が制限してきた琉球政府の司法権と沖縄住民の自治権について大きな関心を呼び起こしました。

ケネディ新政策 [0000010885]

 

2.サンマ事件~税金を返して!~

 1950年代末から、日本本土では、遠洋漁業用餌のサンマの一部が食用に転用されていました。1960年代には、沖縄の業者が食用食材を本土から輸入しており、安価なサンマは庶民の味として親しまれていました。USCAR布令で、輸入品には課税表に基づき関税がかけられ、サンマには20%の関税がかけられていました。1960年代、沖縄の一業者が、物品課税表にサンマは記載されておらず、それにも関わらず課税されていることに気づきました。1963年(昭和38)、その業者は琉球政府を相手取って過誤納付金請求を起こしました(第一次サンマ事件)。翌年、上訴裁判所は原告勝訴の判決を出し、税金の還付を命じました。
 布令の不備を突かれた格好のキャラウェイ高等弁務官は、判決の翌日、いきなり改正布令を出して課税名目にサンマを加えました。さらに、これまでの物品税も有効であると規定して、同様の訴訟が続発するのを阻止しようとしました。その改正布令が違法であるとして、別の業者から提訴されたのが第二次サンマ事件です。
 第二次サンマ事件で原告側は、過去にさかのぼって課税するのは「法律不遡及」の原則に反し、「不当な財産のはく奪からの保障」を定めたアメリカ大統領行政命令にも違反するとして、サンマに課税した物品税を返すよう主張しました。
 1965年(昭和40)10月、中央巡回裁判所は「サンマへの課税を遡及させるのは無効」として法令改正以前の物品税を払い戻すように命じました。サンマをめぐり、沖縄人の裁判官が下した2度の原告勝訴判決を受け、後任のワトソン高等弁務官は1966年(昭和41)6月、USCAR裁判所へ裁判を移送し、米国人の裁判官が裁くように命じました。

 

ポール・W・キャラウェイ高等弁務官(中央)  議員選挙や金融界など多くの分野に介入して直接統治を行いました。その強権ぶりが「キャラウェイ旋風」と恐れられました。右側は琉球政府上訴裁判所仲松恵爽首席判事。1961年8月22日 [260CR-09_0122-01]

 

 

米国民政府(USCAR)裁判所 [260CR-39_0083-01]

 

 

米国民政府裁判官
友利・サンマ事件移送裁判初公判 民政府裁判所民事法廷内 1966年10月 5日 [0000108786]

 

 3.友利事件~議員資格を返して!~

 サンマ事件と時を同じくして起きたもう一つの裁判が「友利事件」です。1965年(昭和40)に実施された琉球立法院議員選挙で、友利隆彪氏(社会大衆党)がトップ当選を果たしました。しかし、過去の罰金50ドルに処された裁判を理由に当選無効とされたため、不服とした友利氏が中央選管を相手取って提訴しました。中央巡回裁判所では友利氏が勝訴。しかし、琉球上訴裁判所で係争の最中、高等弁務官の命により裁判はUSCAR裁判所へ移送されました。

 

USCAR布令第68号22条 
後段の部分で「重罪を犯した者は立法議員の資格を有しない」と定めており、友利氏の当選無効の根拠とされました。 [RDAP000028]

 

4.巻き起こる抗議の嵐

 県民の強い要求である自治権拡大に真っ向から逆行する事態に、裁判移送反対の声が急速に巻き起こりました。沖縄人裁判官たちは、高等弁務官の書簡ひとつで裁判権が奪われた事態を強く非難しました。琉球立法院や市町村議会が抗議決議を次々と可決、大規模な抗議集会が開かれるなど、サンマ・友利事件への抗議は島中に広がりました。

 

全琉巡回・治安裁判所裁判官声明
裁判官たちは、裁判移送は地方自治を侵害し、大統領行政命令に反するとして強く非難しました 。[0000192524]

 

民政府裁判拒否、裁判移送撤回要求県民大会 1966年1月 [0000108786]

 

友利・サンマ事件移送裁判初公判 民政府裁判所民事法廷内
 1
966年10月 5日 琉球政府関係写真資料076 [0000108786]

5.勝ち取った布令審査権

 USCAR裁判所における友利裁判の判決は、1966年(昭和41)12月2日にサンマ判決とともに言い渡されました。第二次サンマ裁判は原告の敗訴でした。一方、友利裁判においては、同氏は布令68号第22条の定める「重罪を犯した者」に該当しないとして、友利氏勝訴の判決を下しました。同氏は立法院議員の資格を獲得し、中央選挙管理委員会より当選証書が送られました。
 そもそもUSCARの布令が適切か否かを琉球民裁判所が審査する権利があるのかで注目された「布令審査権」については、琉球民裁判所の権利を認めた形となりました。友利氏の議員資格をはく奪した布令68号第22条の該当部分は、判決の5日後、後任のフェルディナンド・T・アンガー高等弁務官が改正布令を出して廃止しました。
 琉球立法院と琉球民裁判所は、県民がUSCARに対して声を上げる場となり、日本本土、米国へも沖縄の現状を知らしめ、USCARの「民主主義」の矛盾を内外から突き上げる役割を果たしました。この裁判移送事件をきっかけに、琉球政府は裁判制度の民立法化にとりかかり、1968年(昭和43)1月、琉球政府立法(民立法)にもとづく司法制度がスタートしました。司法権の確立への大きな一歩でした。

 

中央選挙管理委員会、友利隆彪氏に当選証書交付(立法院第29選挙区) 1966年12月8日 [0000108786]

 

 友利・サンマ事件に関する書類[R00001011B]

 

(00008-007) Mackerel Case, 1964.[0000101900]
(サンマ事件に関するUSCAR法務局文書)

 

Chronology-Two Court Cases (00007-012) USCAR Courts, 1966.[0000101900]
(サンマ・友利事件に関するUSCAR法務局文書)

 

琉球政府立法(民立法)による司法制度がスタート [R00160673B]