沖縄県公文書館 > 公文書館通信 > あの日の沖縄 > 1959年6月30日 宮森小学校ジェット機墜落事故(石川ジェット機事件)の現場へかけつけるーあの日の屋良主席―

あの日の沖縄

1959年6月30日 宮森小学校ジェット機墜落事故(石川ジェット機事件)の現場へかけつけるーあの日の屋良主席―

 1959年(昭和34)6月30日午前10時40分頃、米軍嘉手納基地所属のF-100Dジェット戦闘機が石川市(現うるま市石川)に墜落しました。その衝撃で跳ね上がった機体が付近の家をひきずりながら宮森小学校のコンクリート校舎に激突し、ジェット機のエンジンの一部が教室の中に突っ込みました。家々と校舎はまき散らされた燃料で大炎上しました。

「あの日の沖縄 1959年6月30日 宮森小学校ジェット機墜落事故(石川ジェット機事件)」もご覧ください 

 屋良朝苗(のちの琉球政府第5代行政主席)は、この当時、沖縄教職員会会長、沖縄教職員共済会会長、沖縄子どもを守る会会長を兼任し、沖縄の戦後教育の再建に向けて多忙な日々でした。事故の報を受けた屋良は那覇から石川へかけつけ、教育の場である学校が阿鼻叫喚の地獄と化した惨状を目の当たりにして、「これも基地なればこそ起こる事だ」と深い嘆きを日誌に記しました 。

日誌の画像は 「屋良朝苗日誌 006 1959年(昭和34年)05月25日~1960年(昭和35年)02月13日」【0000099317】より

[翻刻]
1959年6月30日(火)晴
(前略)
十[一]時頃事務所 に帰って見ると
Z機が宮森校授業中の児童
の上に落ちて炎上中との事。
驚いて直ちに石川にかけつける
この様な不祥の事件がいつ起るか
分らない沖縄の現状いよいよ実感を
もって味った  宮森一帯は不慮の
事故に阿鼻きょうかんである 余り
にもショックが多く混乱の限りをつくし
て仲々統制ある処理も出来ない
トタン屋根三教室燃焼かいめつ
それ近くの民家の三十軒位もえつ
くしている  私が行った時に知れた事
は即死六名、病院で四名死亡と
の事であった  百名位の児童は
石川の民間医院 コザ中央病院
軍病院に応急収容されてい
るとの事。被害の跡を見た 特に
せんりつをおぼえたりはブロック二階
の一教室であった。ここはもえては
いなかった  Z機の爆発の破片
が大小散乱、ブロックの
壁や硝子を破壊  即死した子も
あったらしく二ヶ所には血がたまって
いる  あの状況ではもっと沢山死亡者
が出たのではないかと思われた。只
癪にさわった事はこの惨たんたる状
況を軍は大急ぎで片づけ民に
写真をとらせないという事だ
新聞社等の写したフィルムは没
収されたという  甚だ奇怪至極だ
この問題は取りあげられなければな
らないと思う。
焼死した子供等の変わり果てた
すがた  二目とは見られない  全く残
酷だ人の世の出来事とは思われ
ない  それを父母兄弟がどうして見ら
れよう、又  確認出来ようか
病院に収容者名がいよいよはっきり
して来るにつれ変れ果てた死体
の身元もせばられて来た様に
思ったが晩の八時頃まで五柱が
未だ確認出来なかった
父母兄弟としては無理もない
あの姿をどうして我が子と思わ
れようか
これも基地なればこそ起る事だ
哀れな沖縄 悲しい被害者
等よ  余りにも残念そして痛
ましい  ああ亡くなった児童等よ
人々よ  くやしいだろう  われわれ手の
施しようもない 只見てさたんするのみ
八時過ぎ内に帰る  歴史上かつて
ない事が起きた六月三十日、今日の
日忘れる事の出来ない不幸の日だ
(後略)