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〔WEB展示〕令和2年度 新規公開写真資料展―サイパン・テニアン・ペリリューの戦い

目次

■サイパン島の戦い
  1. サイパンの戦闘

  2. 捕虜となった兵士

  3. 捕虜となった人々

  4. 戦が終わって

■テニアンの戦い

■ペリリュー島の戦い

サイパン島の戦い

 サイパン島は、爆撃機が燃料補給なしに日本本土の主要都市を攻撃できる距離に位置していたため、米軍にとっては、本土爆撃の航空基地として、また1941年(昭和16)末に日本に占領されたグアム島を奪還するための重要な戦略拠点となりました。

 1944年(昭和19)6月11日、米軍はサイパン島の飛行場や港を中心に攻撃を行いガラパンの町が焼失しました。以降、空襲や艦砲射撃が行われチャラン・カノアの町も破壊されました。同15日には米軍がサイパン島へ上陸し、7月7日に日本軍の組織的戦闘が終了するまで民間人を巻き込んだ苛烈な地上戦が繰り広げられました。この戦闘で死亡した沖縄関係者は6,200人とされています。

 また、米軍政要員には占領政策を担うための教育も施されていましたが、サイパン島での収容所運営が「本格的な訓練の場」となり、サイパン島での経験はその後の沖縄を含めた東アジア地域や太平洋島嶼地域での占領行政に影響を与えたとの指摘もあります。

サイパンの戦闘

写真番号  127-GW-084908
日付 1944年6月
ガラパンの光景 ―マリアナ諸島サイパン島の首都ガラパンの本通り。後方は、急いで後退する敵によって通りに仕掛けられた地雷を撤去する海兵隊員。

写真番号  127-GW-085927
日付 1944年7月
サイパンの降伏… 降伏で面目を失ったこの日本兵は、手前の米兵に穴に留め置きされた後、穴から出て、近くの銃剣を拾い上げすぐ近くの敵である米兵を殺そうとしたところを米兵が引き金を引いて彼の不満を一気に拭い去った。

写真番号  127-GW-087119
日付 1944年7月
サイパンの穴の外へ ― 絶望的な状況の中、2人の日本兵は、海兵隊が進撃すると両手を宙に上げ、すぐの死よりも降伏することを選んだ。前方のぼろぼろになった切り株のすぐ左に、死の方を選んだ敵の足が見える。

写真番号  127-GW-083335
日付 1944年6月
彼は冷酷に撃たれないと納得し出てきたところ、もう一人の日本人も後についてきた。穴から立つ煙に注目。

捕虜となった兵士

写真番号  127-GW-088670
日付 1944年7月9日
監視 … 日本兵に通訳が尋問をしに来るまで間、捕らえた日本兵に45口径の銃を向けて万一に備えて用心しながら待つ海兵隊員の2人。

写真番号  127-GW-088715
日付 1944年7月3日
20日間食糧が尽き飢えていた日本人捕虜は海兵隊員によって洞窟で発見され運ばれてきた。彼は治療を受けており、回復する見込み。

写真番号  127-GW-084266
日付 1944年6月23日
サイパンの車両輸送野営地の下に4日間潜伏していた日本人を探し出す。 海兵隊の1人は掘られた壕の真上を2日間寝床にしていた。日本人は肩を負傷しており、動くことはなかった。

写真番号  127-GW-083503
日付 1944年6月23日
捕虜となることに抵抗したこの日本兵は、虐待されないと保障したにもかかわらず、ハラキリ自決を試み、それなりに迷惑をかけた結果、このようなぶざまな恰好で当局に連れてこられた。 捕獲者の1人は、海兵隊カメラマンのクリフォード・ジョリー伍長であることに注目。

写真番号  127-GW-089661
日付 1944年7月
負傷した日本人に尋問するウィリアム・M・ブラウン中尉(ニューヨーク出身)。

写真番号  127-GW-084581
日付 1944年6月16日
最初の捕虜の親子 (父と息子)を監視するイアン・ベズウィック伍長 (カリフォルニア州ビバリーヒルズ ベッドフォード・ドライブ453番地) 。父親はサイパンの警備隊に、息子は正規軍にいた。

写真番号  127-GW-083404
日付 1944年6月24日
戦線後方の救護所に運ばれる負傷した日本兵。彼らは殺されると思っていたが、人道的な処置を受けたことに驚いていた。

写真番号  127-GW-083406
日付 1944年6月24日
敵でもあっても負傷した日本兵に人道的な治療を行う米海兵隊。 後列に運ばれる前に傷の治療を受ける。

 

写真番号  127-GW-084919
日付 1944年7月3日
日本兵捕虜 ― サイパンの丘陵地での激しい戦闘の末、日本兵を捕虜にした第2海兵連隊。日本兵捕虜は戦線後方に送られ、当分の間抑留される。中にはとても若い者がいることに注目。

 

写真番号  127-GW-083103
日付 1944年6月
写真を撮られたことに対し、けんか腰になる日本人捕虜。

 

写真番号  127-GW-089753
日付 1944年6月22日
捕虜の列と監視する海兵隊員。

 

写真番号  127-GW-084356
日付 1944年6月
隔離 ― サイパンで捕らえられた4人の日本兵は囲いに入れられ、民間人から離された。

 

写真番号  127-GW-083105
日付 1944年6月
初日に連行された2人の日本人捕虜。1人は寝たふりをしている。

 

写真番号  127-GW-082682
日付 1944年6月
他の捕虜に飲料水を運ぶ日本人捕虜。それを見張る海兵隊警備兵。

 

写真番号  127-GW-084268
日付 1944年6月
海兵隊警備兵により、占拠した日本の病院の周りを片づけさせられる日本兵捕虜。

 

写真番号  127-GW-129852
日付 1945年7月11日
捕虜たち ― 沖縄で捕虜になった日本兵たちが太平洋基地に向かう輸送船の乗船を待つ。同じ船には、彼らと沖縄戦で戦った海兵隊員たちが乗っていた。 捕虜収容所への途中で立ち寄ったこの島の米軍施設に驚く捕虜たち。

捕虜となった人々

写真番号  127-GW-083983
日付 1944年6月
日本人捕虜を監視する海兵隊員。

写真番号  127-GW-084058
日付 1944年6月
捕虜収容所に高齢の日本人女性を運ぶ日本兵。

 

写真番号  127-GW-084002
日付 1944年6月
診療所で行われる捕虜の治療。 女の子の腕の手当てをする海兵隊員。

 

写真番号  127-GW-084590
日付 1944年6月
占拠した半島からトラックで連れてこられた捕虜たち。

 

写真番号  111-SCA-392669
日付 1944年7月1日
作戦中に避難していた壕から米軍に救出される民間の日本人家族。

 

写真番号  127-GW-084591
日付 1944年6月
占拠した半島からトラックで連れてこられた捕虜たち。

 

写真番号  127-GW-082443
日付 1944年6月
降伏した民間人と日本兵の集団。

 

写真番号  111-SCA-392670
日付 1944年7月14日
米軍の収容所で5日ぶりに真水を飲む負傷した日本人少女。

 

写真番号  127-GW-089745
日付 
戦勝者と捕虜 ― サイパンの日本兵と民間人を視察する海兵隊ホランド・M・スミス中将。米軍の勝利の後、島の山々の洞窟から連れてこられた日本兵 、朝鮮人労働者、女性、子供達の多言語の住民。

 

写真番号  111-SCA-302082
日付 1944年7月14日
仮収容所で真水の到着を待つ日本の民間人と日本兵。 彼らは食糧が尽きた後に投降した。

 

写真番号  127-GW-089746
日付 
サイパンでの抑留 ― マリアナ諸島のサイパン島の日本の戦略的拠点を攻略した後、掃討作戦で集められた敵兵、朝鮮人労働者、チャモロ人、日本人女性と子供たち。彼らは避難場所としてや侵略者と戦うために使われていた、山の壕や岩の割れ目から連れてこられた。

 

写真番号  127-GW-089730
日付 1944年7月
ビクター・”トランスポート”・メガキアン一等軍曹(妻がカリフォルニア州フレズノ、バルチ通り3135番地に居住)と洞窟の中に隠れているのを発見され、海兵隊が連れたチャモロ人ガイドに出てくるように促された日本兵とその家族。

 戦が終わって

写真番号  111-SCA-405081
日付 1944年
地元製のほうきを持った2人の子どもが、民間人収容所内の清掃をするところ。

写真番号  111-SCA-392362
日付 1944年7月16日
サイパンの日本人捕虜収容所に収容されている何千人もの人たちに食事を賄うために、大量の米が炊かれる。 スコップを使って米をかき混ぜる日本人。


 
 

写真番号  111-SCA-302086
日付 1944年7月16日
食料の山芋、米などを牛車で運ぶ日本人捕虜。

 

写真番号  111-SCA-405086
日付 1944年7月
回収された日本人の食料品が毎日チャモロ人の家族に配給されるが、それは地元民から選出された委員団によって監督される。

 

写真番号  127-GW-086421
日付 1944年6月
朝鮮人労働者を担当するウィリアム・A・マース上等兵(ウィスコンシン州マウンド出身)。合間にお互いの言語を教え合う。

 

写真番号  127-GW-095719
日付 1944年9月13日
教師の指導の下、キャンプ・ススペの日本人区域で毎朝体操をする1500人の日本人の子供。写真に写っているのは8歳から14歳の子供。彼らはとても早い年齢から正しい隊列で立つことを教え込まれている。

 

写真番号  127-GW-095729
日付 1944年9月13日
教員の引率の下、週に数回行われる日本人の子供たちの海水浴。

 

写真番号  111-SCA-405082
日付 1944年
収容所の病院で日光浴をして療養している日本の子供たち。

 

写真番号  127-GW-095720
日付 1944年9月13日
工芸部を監督するラッセル・L・スティーブンズ海軍少尉(カリフォルニア州サンディエゴ市ローランド通り4623番地出身)に作品を見せる日本人の工芸職人。彼女らは織敷物、ベルト、腕時計のストラップ、竹製熊手、複雑な木彫品を作る。

 

写真番号  127-GW-095722
日付 1944年9月13日
キャンプ・ススペの日本人区域にあるお寺で行われた葬式。左が亡くなった女の子の両親(日本本土からの一級市民)。親戚が焼香する間、僧侶がお経をあげている。テーブルに線香と一緒に置かれているクラッカーや缶入りミルクは、遺体とともにお墓に納められ、来世への道中の食料となる。右側の日本人も女の子の親戚。

 

写真番号  127-GW-095730
日付 1944年9月13日
キャンプ・ススぺの民間人収容所では日本の日常生活が営まれている。

 

写真番号  127-GW-095732
日付 1944年9月13日
教師とともにナス畑にいる子供。子供らは毎週3,000ポンドのナスを収穫する。

写真番号  127-GW-122988
日付 1944年12月
昨年末に西太平洋の基地を巡回した第4海兵師団の演芸 「Just 4 Fun」 を、海兵隊員と一緒に見る日本人捕虜たち。

 

テニアンの戦い

 1944年(昭和19)7月24日、米軍はテニアン島に上陸し30日にはテニアン町を占領しました。サイパン島と同様に民間人を巻き込んだ地上戦で、米軍の圧倒的な戦力の前に日本軍は追い詰められていきました。悲惨を極めたテニアン島の戦いでは8月3日に日本軍の組織的戦闘が終了しました。この戦闘における沖縄県出身者の戦没者数は約3,500人とされています。

写真番号  127-GW-087299
日付 1944年7月
海兵隊は慎重にパイナップル畑を通ってウシ岬飛行場を目指す。

写真番号  127-GW-087825
日付 1944年7月30日
戦場を探索している海兵隊員は、移動する際にこの小さな平台型貨車を前に押して移動する。これは敵の攻撃からの防御と、彼らの予備の持ち物を運ぶ際に役立つ。

写真番号  127-GW-088076
日付 1944年7月
テニアン島の神社の入り口 ― テニアン島の日本の神様が祭られる神社に通じる鳥居を海兵隊員が通る。島にはこのような凝った装飾の建物が点在していた。

写真番号  127-GW-093386
日付 1944年8月1日
ここに立つのは、テニアン島の町にあるかつての製粉製糖所の骨組み。

写真番号  127-GW-094566
日付 1944年8月2日
身を潜めていたテニアン島の南側及びマルポ・ポイントの壕から出てきた日本人捕虜。

写真番号  127-GW-094568
日付 1944年8月2日
壕から救出されたばかりの日本人の赤ん坊を抱くラルフ・W・ワーナー一等兵。

写真番号  127-GW-094567
日付 1944年8月2日
日本人捕虜を食事や医療処置が受けられる収容所へと運ぶトラックに乗せる海兵隊。彼らは壕から出るとすぐに、緊急の応急処置と水を与えられた。

写真番号  127-GW-092702
日付 1944年8月
破壊された日本軍の戦闘機。

写真番号  127-GW-152066
日付 1944年
艦砲射撃と空爆を受けたテニアンの町。

 

ペリリュー島の戦い

 ペリリュー島では、1944年(昭和19)9月15日から11月27日にかけて戦闘が行われました。

 大本営は、ペリリュー島の守備隊に対しフィリピン戦に備えて時間を稼ぐため徹底的な持久戦を命じました。日本軍は、米軍の上陸に備えてペリリューに住むすべての民間人を別の島へ移動させ、島全体に陣地を構築し要塞化しました。9月15日、艦砲射撃と爆撃を行ったうえで米軍が上陸。日本人は上陸する米軍を重火器で迎え撃ち、洞窟陣地を利用したゲリラ戦を展開するなど徹底抗戦を行ったため、双方に甚大な被害がでました。1か月半に及んだ過酷な戦場で約1万人の日本兵が戦死しペリリュー島の守備隊はほぼ壊滅しました。

 ペリリュー島の戦いでは、日本軍の戦術がそれまでの玉砕から遊撃戦による持久戦へと変化したことが注目されます。このことは、本土防衛のための持久戦が戦われた沖縄戦を考えるうえでも重要な視点となるでしょう。

写真番号  127-GW-094912
日付 1944年7月
吹き飛ばされて死んだ日本兵。

写真番号  127-GW-095431
日付 1944年9月
米海兵隊のスタンリー・コスミンスキー一等兵(ニューヨーク市出身)が防空壕で死んだ日本兵を調べる。

写真番号  127-GW-097216
日付 1944年9月
フランク・T・ファレル大尉(ニューヨーク市46W10番街)は日本兵が丘のどの場所に居るのかを指差している。手前は日本兵捕虜。

写真番号  127-GW-097217
日付 1944年9月
通訳の一人が日本兵捕虜に降伏を望む他の日本兵はどこに行けばいいか教えていた。その日本兵は我々の陣地に戻る際に自分の仲間に殺された。

写真番号  127-GW-098201
日付 1944年10月
朝鮮人と話すウィリアム・リントン中尉。中尉は彼らに、抑留された後、最終的には朝鮮に帰ると伝えたところ、笑顔になった。

写真番号  127-GW-101802
日付 1944年12月1日
海兵隊の魚雷爆撃機は、特別に各翼の下に噴射機を装備し、ペリリュー諸島に魔法の殺虫剤DDTを散布している。空から島全体にDDTが散布されたのは初めてのことである。