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〔ロビー展〕新規公開写真資料展―サイパン、テニアン島の戦い

 令和2年3月31日~5月31日まで、当館閲覧棟ロビーにて、ロビー展「新規公開資料写真展―サイパン、テニアン島の戦い」を開催しました。

 米国の首都ワシントンDC近郊にある米国国立公文書館には、大量の沖縄関係資料が所蔵されています。当館は1997年(平成9)からその収集に取り組み、これまで写真約2万2千枚、空中写真3,500枚、動画約200本を利用に供してきました。このうち、とくに沖縄戦中の写真や動画については、日本軍や住民が残した記録がほとんど残っていないことから、米軍側の資料がとても貴重です。

 このたび、新たに太平洋戦争中に多くの沖縄県人が住んでいたサイパン、テニアン関係の写真320枚を公開しました。外地で戦禍に巻き込まれた住民たちはどのような状況下に置かれたのでしょうか。収容所の様子をとらえた写真を中心に一部を紹介します。

 なお、新規公開資料320枚は、当ホームページ内「写真が語る沖縄」にて、「サイパン・テニアン」でキーワード検索していただくとすべてご覧になれます。

サイパンの戦闘

 日本の委任統治領だったサイパン島、テニアン島などの南洋群島には、沖縄から多くの人々が移住していました。1944年(昭和19)6月、米軍はサイパン島に上陸し、7月にはテニアン島も攻略しました。住民を巻き込んだこの戦闘で死亡した沖縄関係者は12,000人とされています。米軍にとって南洋群島の経験は、沖縄を含めた日本国内での闘いの厳しさを予想させるものとなりました。

写真番号 111SC-302081
日付 1944年7月10日
7月6日から7日にわたる米軍陣地へのバンザイ突撃の後、タナパク港の海岸に累々と横たわる日本兵の死体。サイパン島にて。

 

写真番号 127-GW-093564
日付 1944年7月
隠れている場所からおとなしく出て投降するよう丘にいる日本兵や民間人に対して呼びかける民間人を監督する第4海兵師団の兵士。後方中央でマイクを使っている現地の女性に注目。

傷を負った人々

 

写真番号 127-GW-090969
日付 1944年7月
崖の壕を出て頂上へ上る日本人。

 

写真番号 127-GW-094544
日付 1944年7月29日
9年生まで親孝行。この14歳の少年は、負傷した父親を背負って2マイル以上も急峻地帯を登り、海兵隊に投降した。

 

写真番号 127-GW-094369
日付 1944年8月1日
日本人捕虜―妻を背負って収容所に向かう日本人役務者。妻は火傷を負い、歩くことができない。

 

写真番号 127-GW-092715
日付 1944年8月
両親が見守る中、日本人の子供の体から破片を取り除く海軍医。

収容された民間人

 米軍は1944年(昭和19)6月20日ころから仮設収容所に収容していた日本人民間人を海岸とススッペ湖の間の地域に移動させました。また7月中旬以降、米軍は非戦闘員の保護収容、投降の呼びかけ等を積極的に行ったとされています。収容所の生活環境は、米軍によって最初に設置された仮設収容所のころは、最低限の衣食住が与えられるのみでしたが、収容者の増加に伴い、住居や道路建設、上下水道施設、医療・衛生などの諸設備の整備などが進められ少しずつ改善していきました。

写真番号 127-GW-086730
日付 1944年6月17日
海兵隊員に導かれる日本人女性と子供。後方の女性は手に十字架を持っている。

写真番号 127-GW-084639
日付 1944年6月
海と空からの砲撃の後にわずかに残った家財道具を拾い集めるために海兵隊のトラックに乗ってチャランカノアの家に向かうサイパンの民間人。

   

写真番号 127-GW-083266
日付 1944年6月21日
壕に隠れていた女性と二人の子供を見つけた第2海兵師団の隊員。

 

写真番号 127-GW-087929
日付 1944年7月30日
収容される民間人―テニアン島で発見された日本人民間人を尋問する海兵隊員。この後、彼らは後方の収容所に連れていかれる。

 

写真番号 127-GW-083999
日付 1944年6月17日
収容された民間人。

 

写真番号 127-GW-083092
日付 1944年6月
安全な場所に移動させられる日本人の女性と子供。

 

写真番号 127-GW-082420
日付 1944年6月
前線から離れた収容所で安全に過ごす地元女性と子供。

 

写真番号 127-GW-084013
日付 1944年6月
師団の管理する第2収容所で民間人女性と子供に水を与えている様子。

戦争とこどもたち

写真番号 127-GW-092162
日付 1944年7月29日
カリフォルニア州オーベリー市出身のチャールズ・モンゲス海兵隊軍曹が差し出した一杯の水に手を伸ばす喉の乾いた日本人の子供。モンゲス軍曹は子供が一人で森林地帯をさまよっていたところをテニアンの前線で拘束した。

写真番号 127-GW-085896
日付 1944年6月
海兵隊員に「東条」で知られているこの5歳児は、サイパンの山で収容された後も快活で、すぐにみんなのお気に入りになった。海兵隊が最初に彼の家族の隠れ場所に近づいたとき、母親と三人の姉妹は泣きながら抵抗したが、彼は捕まっても周囲の状況を落ち着いて観察し、うろたえることはなかった。

写真番号 127-GW-090439
日付 1944年
救助へ――日本兵から恐ろしい話をたくさん聞かされて海兵隊に捕まるのを恐れたテニアンの地元民は壕や丘の塹壕に身を潜めていた。孤立した日本人たちを捜索していた海兵隊のパトロール隊が、父親と一緒に何週間も隠れていた小さな女の子を穴から引っ張り出している様子。

写真番号 127-GW-086471
日付 1944年6月
日本人孤児。

 

写真番号 127-GW-087654
日付 1944年7月3日
戦時の代理母―道をさまよっているところを海兵隊員に発見された三人の幼い子供。彼らは司令部で食料と水が与えられる。その後は適当な部署に引き継がれるまで海兵隊員が母親代わりをしなければならない。

写真番号 127-GW-092743
日付 1944年8月
朝鮮人専用収容所で子供の体を洗う母親。

 

写真番号 127-GW-090935
日付 1944年7月
「キャンディー頂戴」―テニアンの地元の子供にキャンディーあげるために、収容所の有刺鉄線の柵のそばに立つカリフォルニア州ボールドウィン・パーク市出身のヒゲの二等軍曹フェデリコ・クラベリア。

 

写真番号 127-GW-084547
日付 1944年6月30日
ダブル・アクション—サイパンの海兵隊民政チームよって設置された民間人収容所内でリスターバッグの下に立って、水飲みと水浴びを同時にする子供。

戦が終わって

写真番号 127-GW-084642
日付 1944年6月30日
幼児がそばで見ている前で、海兵隊用食器で昼食の支度をする民間人女性。

 

写真番号 127-GW-088628
日付 1944年7月1日
収容所でサイパン島の軍政長官であるC・W・ニミッツ提督が発した布告を読む民間人。

 

写真 127-GW-087863
日付 1944年7月
海兵隊によって収容された若い日本人女性。マルピポイント飛行場近くの壕で見つかった。鏡でのおめかしから彼女の虚栄心が垣間見える。

 

写真番号 111SC-324703
日付 1945年
サイパン島の復興支援収容所であるキャンプ・ススペは、完璧に組織されかつ運営されている。キャンプ内にある民族別の施設区域に分かれ、それぞれの民族が職員を配置し、キャンプ・ススペ司令部も施設区域の議決権を持った代表をだしている。何千人もの日本人、韓国人、カロリン人、地元チャモロ人が働き、給与を得ている。
キャンプ・ススペの日本人区域に住む家族。