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金武町移動展

平成31年3月12日から18日まで、金武町立中央公民館で移動展「沖縄県公文書館所蔵資料にみる金武」を開催しました。
818人の来場があり、当館が所蔵する金武町関係資料を町のみなさまに紹介する機会となりました。

■戦前の金武
■沖縄戦時の金武
■軍政のはじまり
■琉球政府時代の金武
 -1950年代
 -1960年代
 -1970年代
■軍用地
■移民
■金武の偉人
 -當山久三
 -松岡政保
 -大城龍太郎

■戦前の金武

 「五島列島ノ内恩納外間切」は、1732年(享保17)以降の作成と思われます。金武間切として現在の金武町と宜野座村を合わせた8か村を結んで、村と村の距離をそれぞれ示しています。金武に番所があり、漢那までは2通りの道程があったことが分かります。
 「金武番所」は、ペリーを司令長官とするアメリカ東インド艦隊に随行した画家・ハイネが描いたものです。1853年(嘉永6)5月26日に那覇に寄港したペリー一行は、大琉球奥地踏査隊を各地に派遣しました。ペリーの航海記には番所や金武観音寺の様子も記録され、金武番所は今まで見たどの建物よりも大きく立派で、私宅らしく花園があり、ジャスミンの垣で囲まれた召使の家も別にあった、とされています。
 金武写真館が発行した「金武名所絵葉書」に、「移民翁當山久三氏之銅像」が見られます。1931年(昭和6)に、當山の出身地・金武村に建立されたこの銅像は戦時中の金属供出で失われましたが、1961年(昭和36)に再建されました。
また、「金武小学校景」にある校舎は、1925年(大正14)8月に竣工し、校舎としては沖縄県内初の鉄筋コンクリート2階建でした。総坪数355坪、工事総額約5万円(当時)。学区民の労力奉仕や地元産出の資材提供、海外移民からの援助も受け、1年かけて完成しました。「金武大河」は、1924年(大正13)、衛生上の観点から大川をコンクリートで用途別に区切りました。金武区、並里区が経費を負担し、泉口の根は飲料水、近くに男女別の水浴場、道路下方は洗濯場、芋洗い場とされました。現在は金武町指定文化財に指定されています。
「當山記念会館(當山紀念館)」は、金武区出身の大城龍太郎が設計して1935年(昭和10)に竣工しました。有名な當山久三像の後背部に建てられ、現在も解体の危機を免れて残されています。戦前の建造物として貴重であり、高い歴史的価値を有します。

01-4. 五島列島ノ内恩納外間切 一帖

 

02-1. 金武番所(『Encampment of the Exploring Party in Lew-Chew』より)

02-2. 金武小学校創立五十周年記念誌

02-3. 第25代早川元知事を迎える 金武村

02-4. 「金武名所絵葉書」より 移民翁當山久三氏之銅像

02-5. 「金武名所絵葉書」より 金武村並里遠望

02-6. 「金武名所絵葉書」より 金武田大河神泉

02-7. 「金武名所絵葉書」より 金武小学校景

02-8. 「金武名所絵葉書」より 金武大河

02-9. 「金武名所絵葉書」より 當山記念会館(當山記念館)

02-10. 「金武名所絵葉書」より 金武並里耕作地用水池

 

■沖縄戦時の金武

 米軍は、沖縄戦に際して、1944(昭和19)9月~1945年(昭和20)3月にかけて綿密な計画のもとに空中写真による偵察を実施し、撮影した写真を解析して作戦地図を作成しました。金武村の空中写真と作戦地図も作成されており、集落の位置や海岸の形状などが詳細に分かります。
 1945年(昭和20)1月から日本軍の震洋特別攻撃隊が金武と屋嘉に駐屯していました。
同年3月末から米軍による空襲と艦砲射撃が始まり、金武村の住民や村内に疎開していた人々は、屋敷内の人工壕やガマ、山奥につくった避難小屋などに避難をはじめました。同年4月1日に沖縄本島中部西海岸に米軍が上陸し、金武村を4月5日に占領しました。

03-1. アイスバーグ作戦(沖縄戦)戦術用地図 2万5千分の1 KIN NE 金武 北東 再版

03-2. アイスバーグ作戦(沖縄戦)戦術用地図 2万5千分の1 KIN NW 金武 北西 初版

03-3. 米軍撮影空中写真 並里・中川

03-4. 米軍撮影空中写真 伊芸・金武・並里・中川

03-5. 米軍撮影空中写真 金武

03-6. 米軍撮影空中写真 屋嘉・伊芸

04-1. 金武湾上陸地点

 

04-2. 金武の民家で貯蔵品を捜すキルマー上等兵とルーヴ上等兵

 

04-3. 屋嘉北部の道路 木を倒した障害物を踏み越えて通る戦車

04-4. 金武を通過する車両部隊

 

04-5. 金武町の南にある日本軍特攻艇基地

 

04-6. 飛行場とその他施設の概観

07-25 金武の集落の戦災を受けた校舎

 

■軍政のはじまり

 米軍による沖縄の占領支配が始まり、金武村には屋嘉収容所が設置され、投降した非戦闘員、朝鮮人、日本兵が区分けして、収容されました。また、米軍は沖縄侵攻と同時に基地建設をはじめており、金武町には金武飛行場(現・キャンプ・ハンセン)が建設され、1947年(昭和22)からは射撃演習場として利用されていました。「米軍練兵場設置中止方ニ関スル件」は、金武・屋嘉・喜瀬武原の住民が金武飛行場に関して提出した陳情書です。
 「金武初等学校児童からハワイへ 学用品お礼の手紙」は、戦後、ハワイから届いた学用品へのお礼を述べたものです。海外の沖縄県系人による支援は、故郷沖縄の戦後復興に大きな役割を果たしました。

05-1. 軍政府の補給物資を運ぶ住民

 

05-2. 金武 収容された住民

 

05-3. 金武 収容された住民

 

05-4. 金武大川で洗濯をする人々

05-5. 穀物を突き砕く人々 

05-6. 米軍に収容され治療のために金武に連れてこられた人々

05-7. 米軍に収容され治療のために金武に連れてこられた人々

05-8. 金武の軍政府本部で軍政府職員らに給仕をする少女たち

05-9. 金武の水場から水を運ぶ少年

05-10. 金武の労働者用営倉

05-11-1. 米軍練兵場設置中止方ニ関スル件

05-11-2. 米軍練兵場設置中止方ニ関スル件

05-11-3. 米軍練兵場設置中止方ニ関スル件

05-12-1. 金武初等学校児童からハワイへ 学用品お礼の手紙

05-12-2. 金武初等学校児童からハワイへ 学用品お礼の手紙

 

 

05-12-3. 金武初等学校児童からハワイへ 学用品お礼の手紙

 

■琉球政府時代の金武

 米軍は、占領当初、奄美、宮古、八重山にそれぞれ民政府(次いで群島政府)を創設しましたが、やがて琉球全体を所管する中央政府の設立が望ましいと考えるようになりました。1952年(昭和27)4月1日、司法・立法・行政の権能を有する琉球政府が発足しましたが、その権能は米軍の完全なコントロール下にありました。
 この琉球政府の行政府の長である「行政主席」は、沖縄の施政権が日本に返還された1972年(昭和47)5月までに5人が歴任しました。金武町出身の松岡政保は、1964年(昭和39)に第4代行政主席に任命され、4年間務めました。金武中学校生徒を主席公舎に招いたり、中南米訪問報告会を開いたりと、出身地との交流を欠かしませんでした。
 米軍は、「高等弁務官資金」を使って、水道や電力、道路や橋梁、灌漑、公民館などの施設を建設し、地域住民の歓心を得ました。

1950年代

06-1. 結核療養所金武保養院視察

06-3. 比嘉秀平行政主席視察 金武村役所

06-4. 屋嘉レスト・センター入口

06-5. 金武ビーチ(前ヌ浜)

 

 

06-6. 琉舞を披露する沖縄とアメリカの子どもたち
金武区

06-7. 金武観音寺

 

1960年代

07-1. Bar Swan前で立ち話をする女性ら

07-2. 金武村を訪れるキャラウェイ高等弁務官

07-3. 金武観音寺を訪れるキャラウェイ高等弁務官

07-4. 金武村役場で記念植樹するキャラウェイ高等弁務官

07-5. 高等弁務官資金交付式 金武村中川区事務所にて

07-6. 高等弁務官資金交付式 金武村中川区事務所にて

07-7. 金武村金武区へ高等弁務官資金交付

07-8. 金武村並里区 水道施設落成式 開栓する高等弁務官

07-9. 金武大川を訪れるキャラウェイ高等弁務官

07-10. 金武村並里区 水道施設落成式

07-11. 金武村並里区 水道施設落成式

07-12. 金武村並里区 水道施設落成式

07-13. 金武村並里区 水道施設落成式

07-14. 金武村並里区 水道施設落成式

07-15. 金武村並里区 水道施設落成式

07-16. 金武村並里区 水道施設落成式

07-17. 金武村並里区 水道施設落成式

07-18. 金武集落

 

07-19. 並里区綱引き記念

07-21. 松岡政保行政主席の主席公舎を訪問する
金武中学校生徒

07-23. 松岡政保行政主席の主席公舎を訪問する
金武中学校教員

07-26. パスマン米下院歳出委員会対外援助支出分科委員会
委員長 金武発電所視察

 

 

07-27. 松岡政保行政主席視察 當山紀念館にて

 

07-28. 當山久三像

07-29. 松岡政保行政主席視察 當山紀念館にて

07-30. 金武発電所落成式

07-31-1. 金武発電所落成式パンフレット

 

07-32. 金武発電所設立記念切手

07-35-1. USCARニュースリリース765-244
ワトソン高等弁務官の挨拶文

07-35-2. USCARニュースリリース765-244
ワトソン高等弁務官の挨拶文

07-35-3. USCARニュースリリース765-244
ワトソン高等弁務官の挨拶文

 

 

07-38.金武村移民祭 松岡政保行政主席ら琉球政府幹部

07-39. 金武村移民祭 余興

07-40. 金武村屋嘉区への高等弁務官資金の交付

 

07-41. 松岡政保行政主席 中南米訪問報告会 並里公民館 講演する松岡行政主席

07-42. 松岡政保行政主席 中南米訪問報告会 並里公民館

07-44. 松岡政保行政主席 中南米訪問報告会 並里公民館

07-45. 松岡政保行政主席 中南米訪問報告会 並里公民館

 

07-49. 松岡政保行政主席 中南米訪問報告会 並里公民館

07-50. 屋良朝苗行政主席市町村行政視察 金武町

 

07-51. 屋良朝苗行政主席市町村行政視察 金武町


07-52-2. 漁業免許申請書

07-52-3. 漁業免許申請書

 

1970年代

08-1. 金武

08-2. 金武 琉球精神病院正門

08-3. 金武発電所 外観

 

■軍用地

 1952年(昭和27) 4月28日に金武ビーチで実施された「コーラル・ヘッド作戦」は、第29歩兵連隊による陸海軍合同演習です。実戦さながらの上陸演習であり、演習3日前には金武村民などに屋嘉から宜野座まで山入りを一切禁止とする警告を出しました。
また、「代替地に関する陳情書」は、1957年(昭和32)10月に金武区軍用土地地主代表が琉球列島高等弁務官に宛てたものです。土地を接収された住民の移住先や耕作地を求めて、前原の原野などを代替地として開拓する必要があり、そのための移住資金交付やブルドーザーなど重機の有償払い下げを陳情しています。
 1957年(昭和32)1月25日に金武ビーチで実施された第3海兵師団機動作戦訓練の際には、浜田と伊芸の間を全面通行止めにしました。農耕地や集落に砲弾の破片が飛んでくることもありました。
 今も金武町には、山側にキャンプ・ハンセン、海岸沿いには金武レッドビーチ訓練場、金武ブルービーチ訓練場があり、町総面積のおよそ56%が米軍施設用地として使用されています。

09-1. 金武飛行場とその他施設の概観

09-2.  金武飛行場とその他施設の概観

09-3. 金武飛行場管制塔

 

09-6.  金武ビーチでの演習
「コーラル・ヘッド作戦」

09-7. 金武ビーチでの演習
「コーラル・ヘッド作戦」

09-8. 第3海兵師団機動作戦(金武ビーチ)

09-9-1. 対米国民政府往復文書より
[代替地に関する陳情書]

09-9-2. 対米国民政府往復文書より
[代替地に関する陳情書]

■移民

 1899年(明治32)12月5日、沖縄から初めての海外集団移民が、金武町出身・當山久三の斡旋により那覇港から出発しました。沖縄移民は横浜港でチャイナ号に乗船してハワイへ向かい、翌1900年(明治33)1月8日ホノルル港に到着、オアフ島のサトウキビ耕地で26人が契約移民として働き始めました。このうち10人は金武出身の20代~30代の男性でした。海外移民は沖縄の家族らへの送金を絶やさず、その総額は一時、県歳入の6割以上を占めるほどになり、窮乏する沖縄社会を助けました。日米開戦によって1941年(昭和16)に海外移民が打ち切られるまで、金武村は、ハワイをはじめフィリピン、北米、ブラジル、ペルーなどへ総数3,225人を移民として送り出しました。
 戦後、米軍の占領と基地建設は続き、農地や宅地が米軍用地として没収され、収容所を出ても元の居住地に戻れず、生活を再建できない住民が多くいました。その一方で、人口は急激に増加しました。1950年(昭和25)に発足した住民側民政機構である沖縄群島政府は、「沖縄の経済的自立の要因は過剰人口の対策がその基盤となる」との認識から、海外移民を推進する方針を固めました。琉球政府は、1954年(昭和29)から計画移民としてボリビアの移住地へ沖縄住民を送出します。さらに日本政府の補助を受けてボリビア以外の国にも移民を送りました。1972年(昭和47)の日本復帰までに、金武村から62家族202人がボリビアやアルゼンチン、ブラジルなどに移住しました。

 

12-1. 移民取扱人との契約書

12-4. 金武世界石

 
12-10. 在ペルー金武宜野座両村人会共催
松岡行政主席歓迎会


12-11. コロニア・オキナワにて「松岡政保行政主席 中南米訪問に関する報告書」より

■金武の偉人

金武町出身の偉人をご紹介します。

當山久三(1868-1910)

 當山久三は、謝花昇らと共に自由民権運動に尽くしたのち、自由な新天地を求めて海外移民事業に活路を見出しました。1899年(明治32)に、沖縄から初の海外移民をハワイに送り出し、「沖縄海外移民の父」と呼ばれています。

13-1. 當山久三一家

13-2. 當山久三より平良新助あて書簡

13-3. 平良新助 L.A.1951

13-4. 沖縄ハワイ移民66周年記念映画「移民の父 當山久三」 

13-5. 當山久三遺骨移動式 金武観音寺

13-6. 當山久三の墓 
米・カリフォルニア州フレスノ市マウンテン・ビュー墓地

 

13-7. 當山久三の墓参

13-8. 當山久三銅像再建にあたりモデルを務める松岡政保

13-10. 當山久三銅像再建除幕式
あいさつをする琉球政府行政主席

13-11. 當山久三銅像再建除幕式

13-12. 當山久三銅像再建除幕式

 

松岡政保(1897-1989)

 松岡政保は、琉球政府第4代行政主席を務め、松岡建設・松岡配電(後に沖縄電力と合併)の創業者でもあります。復帰後に設立された沖縄電力の社長も歴任しました。また、松岡は、郷里の先輩である當山久三にあこがれてハワイへ移民したほど、心から尊敬しており、當山の姪にあたる良子と結婚し、縁も深かったようです。當山記念館は、松岡が中心となって建設した戦前からの建築です。

14-1. 沖縄諮詢会堂前 集合写真
松岡は中央の柱向かって左 撮影地は現うるま市石川

14-4. 第四代代行政主席任命式

 

14-5. 琉球政府行政主席任命証書

14-7. 松岡政保行政主席 初の局長会議

14-8. リーサー米陸軍長官からの手紙

14-9. L.B.ジョンソン米国大統領と会談する松岡主席
ホワイトハウス

14-10. パスポートを手にする松岡行政主席夫妻

 

14-12. 松岡政保行政主席 中南米訪問 アルゼンチン
在亜沖縄連合会歓迎会にて

 

 

14-13. 松岡政保行政主席 中南米訪問 コロニア沖縄

 

14-14. 佐藤栄作総理大臣来沖 那覇空港での到着式典

14-15. 甲子園球場にて金武出身の球児を激励

 

14-16. 並里区生年合同祝 1969年度

14-18. 松岡政保先生叙勲祝賀会

 

14-19. 松岡政保先生叙勲祝賀会

 

14-22. 松岡政保氏銅像建立除幕式

 

14-23. 沖縄国際海洋博覧会
日本政府代表任命書

14-24. 沖縄国際海洋博覧会にて皇太子ご夫妻(当時)をエスコート

 

 

大城龍太郎(1915-1992)

 大城龍太郎は、沖縄を代表する建築家。戦前は、字金武公民館や當山記念館、武徳殿を、戦後は、波之上宮本殿や琉球政府立法院庁舎などの設計を手掛けました。1968年(昭和43)に沖縄建築専門学校を創立するなど沖縄建築界に貢献しました。

15-1. 琉球八社・金武宮復興への提言 大城龍太郎

15-2. 戦前の武徳殿

15-3. 戦時中の武徳殿

15-4. 武徳殿

15-5. 立法院ビル

15-6. 立法院本会議場にて松岡政保行政主席施政方針演説

 

番号 展示資料件名 資料年代 閲覧用 資料コード等
■戦前の金武
01-4 五島列島ノ内恩納外間切 一帖 日付なし T00015351B(MF)
02-1 金武番所(『Encampment of the Exploring Party in Lew-Chew』より) 1856年刊行 T00012502B(MF)
02-2 金武小学校創立五十周年記念誌 1934年7月25日 0000050225
02-3 第25代早川元知事を迎える 金武村 1941年 0000028538

02-4

「金武名所絵葉書」より移民翁當山久三氏之銅像

日付なし T00016123B
02-5 「金武名所絵葉書」より 金武村並里遠望 日付なし T00016123B
02-6 「金武名所絵葉書」より 金武田大河神泉 日付なし T00016123B
02-7 「金武名所絵葉書」より 金武小学校景 日付なし T00016123B
02-8  「金武名所絵葉書」より 金武大河 日付なし T00016123B
02-9 「金武名所絵葉書」より 當山記念会館(當山記念館) 日付なし T00016123B
02-10 「金武名所絵葉書」より 金武並里耕作地用水池 日付なし T00016123B
02-11 「南西諸島鉱物資源調査写真24」より 金武大川 1938年~1940年 0000067289
■沖縄戦時の金武
03-1 アイスバーグ作戦(沖縄戦)戦術用地図 2万5千分の1
KIN NE 金武 北東 再版
1945年5月 0000058939(CD)
03-2 アイスバーグ作戦(沖縄戦)戦術用地図 2万5千分の1
KIN NW 金武 北西 初版
1944年 0000058943(CD)
03-3 米軍撮影空中写真 並里・中川 ON24146 028-2 1945年2月28日 KS00000073(CD)
03-4 米軍撮影空中写真 伊芸・金武・並里・中川 
ON24654 076
1945年8月16日 KS00000087(CD)
03-5 米軍撮影空中写真 金武 16548 A016 1946年2月22日 KS00000013(CD)
03-6 米軍撮影空中写真 屋嘉・伊芸 16548 A015 1946年2月22日 KS00000013(CD)
04-1 金武湾上陸地点

1945年4月20日

0000112239 15-34-2
04-2 金武の民家で貯蔵品を捜すキルマー上等兵とルーヴ上等兵 1945年5月1日 0000112200 04-25-4
04-3 屋嘉北部の道路 木を倒した障害物を踏み越えて通る戦車 1945年5月1日 0000112289 96-03-3
04-4 金武を通過する車両部隊 1945年5月1日 0000112271 86-30-4
04-5 金武町の南にある日本軍特攻艇基地 1945年6月1日 0000112246 73-37-3
04-6 飛行場とその他施設の概観 1945年7月1日 0000112193 03-14-3
 07-25   金武の集落の戦災を受けた校舎  1946年12月12日 0000112182    114-31-2
■軍政のはじまり
05-1 軍政府の補給物資を運ぶ住民

1945年

0000112198 03-83-2
05-2 金武 収容された住民 1945年4月26日 0000112254 77-31-2
05-3 金武 収容された住民 1945年4月26日 0000112254 77-31-3
05-4 金武大川で洗濯をする人々 1945年4月26日 0000112254 77-32-4
05-5 穀物を突き砕く人々 撮影地:金武 1945年4月26日 0000112254 77-34-4
05-6 米軍に収容され治療のために金武に連れてこられた人々 1945年4月26日  0000112254 77-32-2
05-7 米軍に収容され治療のために金武に連れてこられた人々 1945年4月26日 0000112254 77-35-1
05-8 金武の軍政府本部で軍政府職員らに給仕をする少女たち 1945年4月30日 0000112247 74-18-1
05-9 金武の水場から水を運ぶ少年 1945年5月1日 0000112254 77-30-3
05-10 金武の労働者用営倉 1945年5月20日 0000112254 77-39-4
05-11 米軍練兵場設置中止方ニ関スル件 1945年6月17日 RDAE000193
05-12 金武初等学校児童からハワイへ 学用品お礼の手紙 日付なし 0000050184
■琉球政府時代の金武 
1950年代
06-1 結核療養所金武保養院視察 1950年11月7日 0000112315 17-19-1
06-3 比嘉秀平行政主席視察 金武村役所 1954年 0000108922 058321
06-4 屋嘉レスト・センター入口 1954年 0000112315 17-03-2
06-5 金武ビーチ(前ヌ浜) 1955年8月 0000112315 17-05-1
06-6 琉舞を披露する沖縄とアメリカの子どもたち 金武区 1958年2月6日 0000112301 10-11-2
06-7 金武観音寺 1947~1951年 0000033549 02-021
1960年代
07-1 Bar Swan前で立ち話をする女性ら 1960年2月 0000108869 044536
07-2 金武村を訪れるキャラウェイ高等弁務官 1961年5月22日 0000112097 44-05-1
07-3 金武観音寺を訪れるキャラウェイ高等弁務官 1961年 5月22 0000112097 44-05-2
07-4 金武村役場で記念植樹するキャラウェイ高等弁務官 1961年 5月22日 0000112097 44-05-4
07-5 高等弁務官資金交付式 金武村中川区事務所にて 1962年 1月17日 0000112066 30-62-2
07-6 高等弁務官資金交付式 金武村中川区事務所にて 1962年 1月17日 0000112066 30-61-4
07-7 金武村金武区へ高等弁務官資金交付 1962年 5月11日 0000112066 30-67-4
07-8 金武村並里区 水道施設落成式 開栓する高等弁務官 1962年11月17日 0000112078 34-45-3
07-9 金武大川を訪れるキャラウェイ高等弁務官 1962年11月17日 0000112078 34-45-4
07-10 金武村並里区 水道施設落成式 1962年11月17日 0000112078 34-47-2
0-11 金武村並里区 水道施設落成式 1962年11月17日 0000112078 34-48-1
07-12 金武村並里区 水道施設落成式 1962年11月17日 0000112078 34-50-4
07-13 金武村並里区 水道施設落成式 1962年11月17日 0000112078 34-50-1
07-14 金武村並里区 水道施設落成式 1962年11月17日 0000112078 34-49-3
07-15 金武村並里区 水道施設落成式 1962年11月17日 0000112078 34-49-4
07-16 金武村並里区 水道施設落成式 1962年11月17日 0000112078 34-51-1
07-17 金武村並里区 水道施設落成式 1962年11月17日 0000112078 34-51-2

07-18

金武集落 1963年 9月 0000108724 003746
07-19 並里区綱引き記念 1963年 9月3日 松岡政保文書
07-21 松岡政保行政主席の主席公舎を訪問する金武中学校生徒 1964年 0000108748 010676
07-23 松岡政保行政主席の主席公舎を訪問する金武中学校教員 1964年 0000108748 010690
07-24 松岡政保行政主席の主席公舎を訪問する金武中学校教員 1964年 0000108748 010687
07-26 パスマン米下院歳出委員会対外援助支出分科委員会委員長 金武発電所視察 1964年 3月 3日 0000108733 006230
07-27 松岡政保行政主席視察 當山紀念館にて 1965年4月 0000108755 012792
07-28 當山久三像 1965年 4月 0000108755 012797
07-29 松岡政保行政主席視察 當山紀念館にて 1965年 4月 0000108755 012794
07-30 金武発電所落成式 1965年 7月1日 0000108754 012452
07-31 金武発電所落成式パンフレット 日付なし 0000023597
07-32 金武発電所設立記念切手 1965年7月1日 0000023597
07-35 USCARニュースリリース765-244 ワトソン高等弁務官の挨拶文 1965年7月1日 0000044927(MF)
07-37 金武教育区立金武幼稚園設置認可 1965年5月31日 0000073168
07-38 金武村移民祭 松岡政保行政主席ら琉球政府幹部 1965年9月 0000108759 013819
07-39 金武村移民祭 余興 1965年9月 0000108759 013827
07-40 金武村屋嘉区への高等弁務官資金の交付 1966年 6月28日 0000112048 24-52-1
07-41 松岡政保行政主席 中南米訪問報告会 並里公民館 講演する松岡行政主席 1967年11月 0000108793 023310
07-42 松岡政保行政主席 中南米訪問報告会 並里公民館 1967年11月 0000108792 023293
07-43 松岡政保行政主席 中南米訪問報告会 並里公民館 1967年11月 0000108792 023295
07-44 松岡政保行政主席 中南米訪問報告会 並里公民館 1967年11月 0000108793 023308
07-45 松岡政保行政主席 中南米訪問報告会 並里公民館 1967年11月 0000108792 023297
07-49 松岡政保行政主席 中南米訪問報告会 並里公民館 1967年11月 0000108793 023311
07-50  屋良朝苗行政主席市町村行政視察 金武町 1969年3月 0000108823 031861
07-51 屋良朝苗行政主席市町村行政視察 金武町 1969年3月 0000108823 031863
07-52 漁業免許申請書 1969年10月21日 R00060284B
1970年代
08-1 金武 1970年 0000108902 053788
08-2 金武 琉球精神病院正門 1970年 0000108902 053799
08-3 金武発電所 外観 1970年 0000108902 053793
■軍用地
09-1 金武飛行場とその他施設の概観 1945年7月 0000112192 03-13-2
09-2 金武飛行場とその他施設の概観 1945年7月 0000112193 03-14-1
09-3 金武飛行場管制塔 日付なし 0000112244 72-26-3
09-6 金武ビーチでの演習「コーラル・ヘッド作戦」 1952年 4月28日 0000112222 07-28-1
09-7 金武ビーチでの演習「コーラル・ヘッド作戦」 1952年 4月28日 0000112222 07-28-2
09-8 第3海兵師団機動作戦(金武ビーチ) 1957年 1月25日 0000112265 83-24-3
09-9 対米国民政府往復文書より[代替地に関する陳情書] 1957年10月 R00165611B
■移民
12-1 移民取扱人との契約書 1899年12月2日 0000050298
12-4 金武世界石 日付なし 0000061320
12-10 在ペルー金武宜野座両村人会共催 松岡行政主席歓迎会 1967年9月28日 松岡政保文書
12-11 コロニア・オキナワにて 「松岡政保行政主席 中南米訪問に関する報告書」より 1967年10月1日 R00000558B
■金武の偉人
當山久三
13-1 當山久三一家 1904年 松岡政保文書
13-2 當山久三より平良新助あて書簡 1907年9月12日 0000050298
13-3 平良新助 L.A.1951 1951年頃 0000050225
13-4 沖縄ハワイ移民66周年記念映画「移民の父 當山久三」 1966年 0000050131
13-5 當山久三遺骨移動式 金武観音寺 1957年 0000061320
13-6 當山久三の墓 米カリフォルニア州フレスノ市マウンテン・ビュー墓地 日付なし 松岡政保文書
13-7 當山久三の墓参 日付なし 0000050481
13-8 當山久三銅像再建にあたりモデルを務める松岡政保 日付なし 松岡政保文書
13-9 當山久三銅像再建除幕式 1961年9月30日 0000108890 050261
13-10 當山久三銅像再建除幕式 あいさつをする琉球政府行政主席 1961年9月30日 松岡政保文書
13-11 當山久三銅像再建除幕式 1961年9月30日 松岡政保文書
13-12 當山久三銅像再建除幕式 1961年9月30日 0000108890 050260
松岡政保
14-1 沖縄諮詢会堂前 集合写真 松岡は中央の柱向かって左 撮影地は現うるま市石川 1945年頃 松岡政保文書
14-5 琉球政府行政主席任命証書 1964年10月31日 松岡政保文書
14-7 松岡政保行政主席 初の局長会議 1964年11月1日 0000108741 008570
14-8 リーサー米陸軍長官からの手紙 1967年3月28日 松岡政保文書
14-9 L.B.ジョンソン米国大統領と会談する松岡主席 ホワイトハウス 1967年3月29日 松岡政保文書
14-10 パスポートを手にする松岡行政主席夫妻 1967年8月16日 0000108931 059916
14-12 松岡政保行政主席 中南米訪問 アルゼンチン 在亜沖縄連合会歓迎会にて 1967年10月2日 0000108782 020390
14-13 松岡政保行政主席 中南米訪問 コロニア沖縄 1967年10月1日 0000108792 023218
14-14 佐藤栄作総理大臣来沖 那覇空港での到着式典 1965年8月19日 0000108909 055643
14-15 甲子園球場にて金武出身の球児を激励 1968年8月 松岡政保文書
14-16 並里区生年合同祝 1969年度 1969年 松岡政保文書
14-18 松岡政保先生叙勲祝賀会 1970年 松岡政保文書
14-19 松岡政保先生叙勲祝賀会 1970年 松岡政保文書
14-22 松岡政保氏銅像建立除幕式 1971年8月8日 松岡政保文書
14-24 沖縄国際海洋博覧会にて皇太子ご夫妻(当時)をエスコート 1975年 松岡政保文書
大城龍太郎
15-1 琉球八社・金武宮復興への提言 大城龍太郎 日付なし 松岡政保文書
15-2 戦前の武徳殿 日付なし 0000016852
15-3 戦時中の武徳殿 1945年5月1日 0000112248 74-29-2
15-4 武徳殿 1947~1951年頃 0000086414
15-5 立法院ビル 1968年 0000108810 028135
15-6 立法院本会議場にて 松岡政保行政主席施政方針演説 1968年5月10日 0000108808 027591