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空中写真にみる沖縄のかたち

 平成30年1月16日から9月2日まで、当館展示室で所蔵資料展「空中写真にみる沖縄のかたち」を開催しました。
 沖縄戦に際して、米軍は爆撃機や空母艦載機で沖縄上空を飛行し、膨大な数の空中写真を撮影しました。空中写真は、作戦地図やその後の米軍基地建設計画の基礎資料として使われました。
 沖縄県公文書館は、これらの空中写真を米国国立公文書館から収集し、利用に供しています。戦禍に見舞われる前の沖縄のすがたと、その後の復興のありようを空からの眼で見てみましょう。
 市町村名等は全て2020年現在の表記としました。

■焦土の沖縄
■沖縄戦に際して米軍が撮影した空中写真
■沖縄戦時の軍用飛行場の移り変わり
■戦後の出発‐村落のすがた
■変貌する沖縄 復興・開発・近代化

■焦土の沖縄

 1941年(昭和16)12月8日に日米が開戦、アメリカはサイパン、フィリピン、沖縄を占領して基地を確保し、日本本土への上陸を図ろうとしました。大本営は、沖縄に第32軍を配備して、迎撃のための飛行場建設を進めましたが、これらの飛行場は1944年(昭和19)のいわゆる「10・10空襲」の攻撃対象となり、沖縄各地で火の手があがりました。それから半年後の1945年(昭和20)3月末から、猛烈な艦砲射撃、空爆、地上戦が始まり、沖縄島は3カ月で焦土と化しました。

1.中部から見た10.10空襲 1944年10月10日

 1944年(昭和19)10月10日、沖縄は米機動部隊の猛烈な空襲を受けた。午前6時過ぎに始まった空襲の第1波は、那覇・嘉手納・読谷にあった日本軍の各飛行場を主な攻撃対象とした。この写真は読谷から南方を望み、牧港飛行場の向こう、那覇方面で煙の上がる様子をとらえている。手前右は陸軍北飛行場(読谷)、左は陸軍中飛行場(現 嘉手納飛行場)。

2.10.10空襲下の那覇 奥武山一帯 1944年10月10日

 10.10空襲に際して、米艦載機による攻撃は5波、延べ1,000機余りが出動した。空襲は沖縄島の広範囲に及んだが、県都・那覇は集中的に攻撃された。最後の攻撃は午後2時45分開始、那覇市の死傷者は軍民合わせて668人、負傷者758人にのぼった。

3.『那覇市全図』 1935年4月1日発行

 当時の那覇市は県庁が所在し、沖縄の行政・経済・文化の中心地だった。首里・真和志・小禄の合併前で市域は比較的小さかったが、9年後、投下された焼夷弾によってこれら那覇市域の90%が焼失した。

4.灰燼の那覇 1945年7月1日

 10.10空襲と地上戦を経た那覇は瓦礫の山と化していた。旧那覇の中心部一帯も上陸した米軍に完全に制圧され、物資集積所、戦闘部隊の兵舎が並ぶ基地に変わっている。

5.那覇市奥武山一帯 2010年9月27日

 10.10空襲から65年後の那覇市。沖縄都市モノレールが運行し、沖縄セルラースタジアム、県立武道館、奥武山公園など、人々のレジャー空間が形成されている。米軍は、1945年(昭和20)に軍港とした那覇の港を使い続けてきたが、浦添市への移設が計画されている。

6.米軍上陸 読谷村字都屋

 1945年(昭和20)4月1日、米軍は、3月26日の慶良間諸島上陸に続いて、読谷から北谷にかけての海岸から沖縄島に上陸した。

9.浦添市前田 1945年4月2日

 前田集落の北側にそびえる前田高地は、米軍の歩兵部隊も縄ばしごで登らざるを得ないような絶壁だった。ここでの攻防は、映画「ハクソー・リッジ」でも知られる。4月下旬から5月にかけての戦闘ののち、米軍はここを突破して首里へ迫った。

10.前田高地(ハクソー・リッジ)のスケッチ

 『Intelligence Monograph』(米陸軍第10軍作成の報告書 1945年7月付)に収録された米兵によるスケッチ。米軍は写真のほかに、その場で状況を記録したイラストも報告書に活用した。

11.伊計島 1945年4月1日

 空爆される伊計島。米軍は沖縄島の東海岸に海軍艦艇の停泊地を求めて、安全を確保しようとした。この空爆後の4月7日、伊計・宮城・平安座・浜比嘉に上陸して、日本軍がいないことを確認したが、津堅島には日本軍部隊がいたために、4月10日から11日にかけて米軍との地上戦が行われた。

12.うるま市 海中道路 1990年10月17日

 勝連半島の屋慶名から平安座島を1972年(昭和47)竣工の海中道路4.75kmが結ぶ。のち、伊計大橋、浜比嘉大橋が建設され、藪地島も半島と架橋された。1969年(昭和44)、アメリカ資本のガルフ社が石油備蓄基地建設を開始。のちに平安座島と宮城島の間を埋め立てて拡張した。巨大なオイルタンクが見える。が、11で空爆を受けている集落付近。

15.嘉手納町字嘉手納 1945年8月18日

 1945年(昭和20)8月18日撮影の嘉手納飛行場(日本陸軍の中飛行場)一帯。ここを占領した米軍は日本本土攻撃に備えて、2,290mの滑走路2本を中心に大規模な拡張整備を行った。軍用道路として巨大なロータリーがすでに出来あがっていた。嘉手納飛行場は現在も米軍航空基地の中枢として機能している。

16.浦添市牧港 1945年5月1日

 激しい戦闘のさなかで逃げまどう住民を、米軍は日々数千人も「保護」して収容所に送った。この写真には路上を行く人の姿があるが、進軍する米軍か、避難民の姿か判然としない。

17.糸満市米須・大度・摩文仁 1946年2月22日

 日本軍第32軍の牛島司令官は23日(22日説あり)摩文仁丘で自決。米軍の艦砲射撃・爆撃・火炎放射器などによる掃討戦で、一帯は畑や森、集落まで焼き尽くされた。写真は1946年(昭和21)2月22日撮影。黒い帯のように見えるのが摩文仁丘。左手の白い部分は米軍の駐屯地で、福地飛行場の短い滑走路が見える。

18.糸満市米須・大度・摩文仁 2010年12月10日

 摩文仁の旧集落を含む摩文仁丘周辺は「平和祈念公園」となり、丘の北側の麓に沖縄県平和祈念資料館、「平和の礎」が建つ。

■沖縄戦に際して米軍が撮影した空中写真

 気球・航空機・人工衛星などを用いて、上空から地表の様子を撮影した写真のことを「空中写真(Aerial Photograph)」といいます。第二次世界大戦初期は、ドイツやイギリスで空中写真による情報収集活動が盛んに行われ、アメリカでも1942年(昭和17)1月に写真情報隊が組織されました。
 沖縄戦に際して、米軍は綿密な計画のもとに空中写真による偵察を実施し、撮影した写真を解析して作戦地図を作成しました。いわゆる10・10空襲直前の1944年(昭和19)9月29日から1945年(昭和20)3月28日の間に総計224機の米軍偵察機を飛ばして、208,802枚の空中写真を撮影したとされます(G-2作成の報告書『インテリジェンス・モノグラフ』より)。
 撮影に使用したネガフィルムは、9インチ×9インチ(約23cm×23cm)、9インチ×18インチ(約23㎝×46㎝)と大きく、豊富な情報量がありました。作戦地図は、日本軍との戦闘だけでなく、その後の占領の基礎資料ともなりました。   
 空中写真には、垂直写真と斜め写真があります。正確な地図を作るには、カメラのレンズ中心と地表の撮影中心を結ぶ線(カメラ軸)が、地球面に対して厳密に垂直なものが望ましいのですが、実際の撮影時には多少の傾きが生じます。傾きが3度以内のものは垂直写真、3度以上のものは斜め写真として区別されます。一般に、斜め写真は地図作成の資料には用いませんが、地上の様子を奥行きをもってとらえ、戦争の破壊のすさまじさを伝えています。

 

P1.航空カメラを搭載し、撮影任務につく。

P2.撮影した大きなネガロールフィルムから情報を判読する。 

P3.大きく焼いたプリントで標的区域をチェックする。
手には虫眼鏡。撮影地:伊江島

P4.フィルムから写真を現像する。

■沖縄戦時の軍用飛行場の移り変わり

 大日本帝国陸軍第32軍や海軍は、航空攻撃によって米軍に打撃を与えるという大本営の構想のもと、地上兵力と住民を総動員して各地に飛行場を建設しました。上陸した米軍はこれらの飛行場の多くを奪取して日本本土攻撃のために拡張整備するほか、新たな飛行場を建設しました。

7.西原町小那覇 西原飛行場 1946年2月22日

8.西原町小那覇 西原飛行場跡一帯 2010年9月27日

 西原飛行場は、1944年(昭和19)に日本陸軍が建設に着手してのち放棄していたが、上陸した米軍が占領して2,130メートルの滑走路を持つ爆撃機専用飛行場に拡張し「与那原飛行場」と呼んだ。のちに米軍基地の統廃合により地主に返還された。現在、飛行場跡地周辺は工場や畑地に利用され、周辺には西原町役場やショッピングセンター、住宅地ができている。巨大なタンク群は、1968年(昭和43)に製油所建設のための埋立免許を取得したエッソ[現・南西石油株式会社]のもの。
 

13.沖縄市比屋根~泡瀬 1946年2月22日

14.沖縄市比屋根~泡瀬 2010年9月27日

 13は、米海軍が一帯を接収して1945年(昭和20)5月1日に着工した泡瀬飛行場の一角。長さ1,520mの滑走路を持つ巨大な飛行場だが、戦後は通信施設を残して放棄された。返還後は市街化が進み、跡地付近にできた沖縄総合運動公園は1987年(昭和62)海邦国体の主会場になった。奥武岬(の位置)と泡瀬半島の間は戦後の埋立てで海岸線がかなり変化したが、さらに大規模な埋立が計画されている。

■戦後の出発‐村落のすがた

 米軍が周辺離島含めて16地区に設置した民間人収容所に、30数万人の住民が生活していました。収容所の衛生状態や食料事情、治安は必ずしもよいものとは言えず、飢餓やマラリアで亡くなる者もいました。  
 1945年(昭和20)10月頃から帰村が認められるようになりましたが、収容中に私有地が接収されて軍事施設となり、元の居住地へ帰ることのできない人々は1946年(昭和21)4月時点で13万人いたとされます。元の居住地が軍用地として囲い込まれてしまった住民は、やむなく周辺に住み着くようになりました。集落ごと別の土地へ移動した例も多くありましたが、本来の地主との間でトラブルも起こりました。
 運よく戦火をまぬがれた集落に戻れた人々や、焼き尽くされた跡地に集落を再建することから始めた人々もいました。

19.多良間島 1945年4月30日

20.多良間島 2008年11月14日

 仲筋と塩川の二つの集落の周りに村抱護(むらほうご)と呼ばれる樹林帯が確認できる。村抱護とは、文字通りムラを抱え護るようにして人工的に植栽された林で、居住域や畑などの生産域、御嶽などの聖域と結合して村落構造を形成した。戦前は各地で見られたこのようなムラの構造が開発や区画整理などで消えてしまった例も多いが、多良間島では保たれている。
 

21.東村字有銘 1945年3月1日

22.東村字有銘 1947~51年

 22は有銘川本流をさかのぼった谷合いから下流の集落を望む。河口平野部では稲や甘藷を栽培し、山林部も段々畑に活用していた。遠くに見える有銘小中学校(の位置)は現在でも同じ場所にあるが、山の斜面の段々畑はすでに消えて草木が覆っている。
 

23.大宜味村字塩屋 1945年2月28日

24.大宜味村字塩屋 1947~51年

 沖縄戦時、塩屋集落(の位置)では2軒を除く全家屋が焼失、その跡に米軍が兵舎を建てた。住民の大半は喜如嘉の収容所に入り、1946年(昭和21)5月に塩屋に戻った。24に、再建された家屋や、米軍のコンセットのようなもの、背後の山の段々畑が見える。現在では段々畑は耕作されなくなり山野と化している。
 

25.名護市字二見 1945年2月28日

26.名護市字二見 1947~51年

 25の左手に名護湾に面した旧名護町の集落が見える。東海岸に向けて山越えし、大浦湾の入り江に面した低地に見えてくる杉田と楚久の2つの集落を二見という(の位置)。川沿いの湿地には水田が広がるが、当時の住民の生業は主として山仕事で、産出する薪や炭が山原船で積み出された。
 

27.うるま市石川 収容所 1945年8月5日

28.うるま市石川 1945年12月10日

 米軍の軍政本部は石川(現・うるま市)に置かれた。人口1800人ほどの集落だった石川は、初期に設置された収容所の避難民23,000人でふくれあがった。人々は歌や踊りで心を慰め、27には石川収容所での大演芸会開催前の様子が見られる。この舞台の設置場所と思われる地点を28にで示した。近くに写る屋敷森は現在も残っている。
 

29.名護市辺野古 収容所 1945年7月8日

30.名護市久志~辺野古 1946年2月22日

 米軍は各地の収容所に住民を移送したが、北部地区の収容所は、石川地区と比べて栄養失調やマラリアが蔓延する悲惨な状態であった。29は辺野古の収容所で撮影。30の空撮に写る集落も収容所に用いられ、大浦崎・瀬嵩地区にはそれぞれ3万人近くが生活していた。大浦湾では、現在、大規模な米軍基地建設工事が進んでいる。
 

31.宜野湾市喜友名 1944年9月29日

32.宜野湾市喜友名 1945年8月18日

33.宜野湾市 2001年1月12日

 

34.Futema Airdrome 1945年9月19日

 31は宜野湾市喜友名付近。下方に首里と普天満宮を結ぶ宜野湾街道沿いの松並木の緑陰の様子が見える。松並木は倒され、周辺の民間地を接収して米軍の普天間飛行場が造られた。32は飛行場建設中の撮影で、34はその一か月後に作成された普天間飛行場滑走路工事計画進ちょく状況報告書添付図面。接収地は現在も地主に返還されず、33に見られるとおり、密集する民間地域の中心に存在する「世界一危険な基地」と言われる。

■変貌する沖縄 復興・開発・近代化

 激しい戦闘と占領によって変わり果てた郷土でしたが、復興の歩みも始まり、1953年(昭和28)には戦前の生活水準に回復したとされました。経済構造や土地利用の変化、大規模開発に伴って、景観もさらに変わっていきました。軍用地として接収された土地が返還されて新しい生活空間となった例もあれば、戻らぬままで地域振興の阻害要因と見られている例もあります。

35.北谷町砂辺 1945年2月28日

36.北谷町砂辺 1945年8月18日

37.北谷町砂辺 2010年9月27日

 
 北谷村(現 北谷町)の全域は1945年(昭和20)4月1日の米軍上陸と同時に占領され、田畑や集落を破壊して猛烈な速さで基地が建設された。35は上陸前の砂辺、36は上陸後。砂辺地区は1955年(昭和30)頃から返還され、現在では37に見るように民間利用されているが、北谷町の5割がなお米軍用地のままである。
 

38.本部町 上本部飛行場一帯 1946年4月19日

39.本部町 上本部飛行場跡一帯 1977年11月24日

 米軍は、本部町北里地区の住民を収容している間に上本部飛行場(桃原飛行場)を建設したため、居住地を奪われた住民は困窮の生活を送った。1971年(昭和46)に全面返還されたが、現在も町が跡地利用基本計画・基本構想に取り組んでいる。39には1975年(昭和50)の沖縄国際海洋博覧会で話題を集めた海上都市・アクアポリスが見える。
 

41.那覇市辻原 1945年7月1日

42.那覇市辻原 2010年9月27日

 41には那覇の北西沿岸部の辻原にあった墓地群(チージバルボチ)が写り、亀甲墓(カメコウバカ)の他にもさまざまな型の墓が見える。地上戦でも破壊を免れたが、1953年(昭和28)に区画整理が始まると辻原を含む海岸一帯にあった1,700基余りの墓は移転を命じられ、墓や石垣の石材は埋立や道路整備に使われたという。現在はウォーターフロントとして開発が進む。墓の移転先として1956年(昭和31)から整備されたのが識名霊園である。
 

43.牧港住宅地区 1968年

44.牧港住宅地区 1970年5月5日

45.那覇新都心 1993年8月3日

46.那覇新都心 2010年9月27日

 現・那覇新都心地区の変遷の様子。沖縄戦における激戦地だったこの一帯を、米軍は1945年(昭和20)から55年(昭和30)にかけて強制接収し、軍属用住宅地(Machinato Housing Area)に整備した。広さは東京ドーム約42個分、プールやスケート場、ゴルフ場もあった。1987年(昭和62)には全面返還され、地権者との調整を経て、大型ショッピングセンターや公園、宅地、公共施設が並ぶ「那覇新都心」として再生し、にぎわいを見せている。
 

47.南風原町兼城、宮平、与那覇一帯 1945年4月2日

48.南風原町兼城、宮平、与那覇一帯 2010年9月27日

 公文書館の南側一帯。47は雲がかかっているが、中央付近に兼城十字路(の位置)や、その近くを通る軽便鉄道の線路が見える。下方に陸軍病院のあった喜屋武、右手は宮平方面。48には、拡大する住宅地、学校施設、大型スーパーや自動車道が写り、農地を残しつつ活気のある町の様子がわかる。
 

49.糸満市西崎一帯 1945年4月17日

50.糸満市西崎一帯 2005年1月24日

51-1.埋立許可願 糸満町 1951年 

51-2.埋立許可願 糸満町 1951年 

 49には、米軍の攻撃で廃墟と化す前の旧糸満町の街並みが見える。糸満町は戦後、急激な人口増加に対応するため、糸満漁港を中心に埋立事業を推進した。糸満町は、1961年(昭和36)に兼城村・高嶺村・三和村と合併して新・糸満町となり、1971年(昭和45)に市に昇格した。
 

52.沖縄市中央 1945年2月28日

53.沖縄市中央 2010年9月27日

 53はコザのゲート通り一帯(嘉手納基地第2ゲートから国道330号の胡屋十字路を結ぶ)。52は米軍が上陸前にほぼ同じ場所を撮影したもの。現在のコザの中心地は、戦前は一面の農地だった。越来村(現・沖縄市)は「ビジネスセンター」(アメリカ人相手の大商店街)構想を立てて、1950年(昭和25)にこの通りをセンターに決定し、田畑は米兵たちでにぎわう街に変わっていった。
 

54.米軍作戦地形図 1:4800 AZAGAWA SHEET 122 1948年

55.那覇市安謝方面を望む 1947~51年

56.那覇市安謝~浦添市勢理客 1945年2月28日

57.那覇市安謝~浦添市勢理客 2005年1月24日

 55は、同じ場所から日を変えて撮った写真をつないだもの。中央の重なりの部分で、瓦葺き家屋の建設前と後の時差があることがわかる。座礁したらしい船が戦時を想起させる一方で、復興に向かって動き出す町の活気も伝わる。対岸は、54の地形図ではsalt field(塩田)と記述されており、煙を吐く煙突は製塩場と思われる。中央やや右を湾曲する道路が1号線(現在の国道58号)、丘陵向かって右手に見える孤立した岩は、前田高地の為朝岩(の位置)。米軍は空中写真を基に作成した地形図を、戦後も情報を更新して使用した。
 

58.首里 1945年5月18日

59.首里 1977年12月13日

60.首里 2010年9月27日

61.首里 丘の斜面を埋める着弾の跡 1945年

 日本軍は宜野湾・浦添で米軍に40日間にわたって激しく応戦したが、首里にあった司令部は5月下旬には南部へ撤退を余儀なくされ、首里城も壊滅した。61に見える水たまりは、びっしりと着弾した跡で、攻撃のすさまじさを示す。首里住民の収容所からの帰還は1945年(昭和20)12月14日に始まり、首里城などの瓦礫の中から、戦前は国宝とされていた文化財の破片を掘り起こして仮設の博物館に設置した。59に、その後開館した琉球政府立博物館(のち沖縄県立博物館)の建物(の位置)が見える。博物館は2007年(平成19)に那覇新都心へ移転し、60に映るのはその跡地。
 

62.名護市(旧名護町) 1945年2月28日

63.名護市役所一帯 1993年10月23日

 62は旧名護町の街並み。県立三中や名護国民学校の建物は、のちに侵攻した米軍の兵舎に使われた。宮里付近にある影の濃い部分は海岸植生のハスノハギリ群落。集落と耕作地の境界に沿った抱護林と思われる林地帯は、63では減少している。埋立てられた名護湾沿いには、名護漁港、市民会館、21世紀の森などの施設が建つ。

 

番号 展示資料件名 資料年代 種別 資料コード 出所情報
■焦土の沖縄
1 中部方面から見た10.10空襲 1944年10月10日 米軍空撮 ON24024 CV13-125E(s) 095
2 10.10空襲下の那覇 奥武山一帯 1944年10月10日 米軍空撮

0000106165
ゴードン・ワーナー文書

3 『那覇市全図』 1935年4月1日発行

地図

T00021602B
岸秋正文書
4 灰燼の那覇 1945年7月1日 米軍空撮  ON27821/1AD 28PRS 025
5 那覇市奥武山一帯 2010年9月27日 国土地理院所蔵  COK2010 1-C12-8
6 米軍上陸  読谷村字都屋 1945年4月1日 米軍空撮  ON24696 CVL27-81 013
9 浦添市前田 1945年4月2日 米軍空撮  ON27835 CV20-103 052
10

前田高地(ハクソー・リッジ)のスケッチ
『10th Army – G-2 Intelligence Monograph – Ryukyus Campaign』 

1945年7月 文書  0000128574
RG407: 陸軍高級副官部文書   (第二次世界大戦作戦報告書)
11 伊計島 1945年4月1日 米軍空撮  ON24618 CV17-531 012
12 うるま市 海中道路 1990年10月17日 国土地理院所蔵  OK-90-1X  C8-3,5,7
15 嘉手納町字嘉手納 1945年8月18日 米軍空撮  ON24656 1VV(8PS)R230-2-6(6PG)18 040-1
16 浦添市牧港 1945年5月1日

米軍空撮 

ON24618 CV38-70 012
17 糸満市米須・大度・摩文仁 1946年2月22日 米軍空撮  16548 1RS M45 8AF VV A064
18 糸満市米須・大度・摩文仁 2010年12月10日 国土地理院所蔵  COK2010 1-C22-17
■沖縄戦に際して米軍が撮影した空中写真
P1 航空カメラを搭載し、撮影任務につく。  1945年 写真

0000112241/16-09-1
米空軍コレクション 第二次大戦シリーズ 08 

P2 撮影した大きなロールネガフィルムから情報を判読する。 1945年  写真

0000112260/80-36-4 
米海兵隊写真資料17 

P3 大きく焼いたプリントで標的区域をチェックする。手には虫眼鏡。伊江島 1945年  写真

0000112241/16-04-2
米空軍コレクション 第二次大戦シリーズ 08 

P4 フィルムから写真を現像する。 1945年 写真

0000112241/16-09-3
米空軍コレクション 第二次大戦シリーズ 08 

■沖縄戦時の軍用飛行場の移り変わり
7 西原町小那覇 西原飛行場 1946年2月22日  米軍空撮 16548 1RS M45 8AF VV A001 
8 西原町小那覇 西原飛行場跡一帯 2010年9月27日 国土地理院所蔵 COK2010 1-C10-19 
13 沖縄市比屋根~泡瀬 1946年2月22日  米軍空撮 16548 1RS M45 8AF VV A031
14 沖縄市比屋根~泡瀬 2010年9月27日  国土地理院所蔵 COK2010 1-C3-24
■戦後の出発‐村落のすがた
19 多良間島 1945年4月30日 米軍空撮 16561 25PS 6PG 5M-120Z-2 3V 003
20 多良間島 2008年11月14日 国土地理院所蔵  COK20086X-C6-6
21 東村字有銘 1945年3月1日 米軍空撮 ON24551 CV18-404 128
22 東村字有銘 1947~51年 写真  0000033545-1028
W・ジェンキンス文書
23 大宜味村字塩屋 1945年2月28日 米軍空撮  ON24144 3PR5M63XXIBC-IV 047
24 大宜味村字塩屋 1947~51年 写真  0000033548-1196
W・ジェンキンス文書
25 名護市字二見 1945年2月28日 米軍空撮  ON23975 3PR5M62XXIBC-Ⅳ 051
26 名護市字二見 1947~51年 写真  0000033545-1031
W・ジェンキンス文書
27 うるま市石川 収容所 1945年8月5日 写真 

112-02-3, 112-02-4, 112-03-1[接合]
米海軍写真資料23

28 うるま市石川  1945年12月10日 米軍空撮  16545 1RS M22 8AF VV A012
29 名護市辺野古 収容所 1945年7月8日 写真  112-12-1
米海軍写真資料24
30 名護市久志~辺野古 1946年2月22日 米軍空撮  16548 1RS M45 8AF VV A020
31 宜野湾市喜友名 1944年9月29日 米軍空撮  16543 14PL MR7 RV 468BG 014
32 宜野湾市喜友名 1945年8月18日 米軍空撮 

ON24656 1VV(8PS)R230-2-6(6PG)18
020-1,2/ 022-1,2/ 023-1,2[接合]

33 宜野湾市 2001年1月12日 国土地理院所蔵  COK2001 1X-C1-5
34  Futema Airdrome 1945年9月19日 文書 U00002111B
RG77:工兵隊長室文書
■変貌する沖縄 復興・開発・近代化
35 北谷町砂辺 1945年2月28日 米軍空撮 ON23975 3PR5M62XXIBC-IV 008
36 北谷町砂辺 1945年8月18日 米軍空撮 ON24656 CV11-85S 034-2
37 北谷町砂辺 2010年9月27日 国土地理院所蔵 COK2010 1 C1A 16
38 本部町 上本部飛行場一帯 1946年4月19日 米軍空撮 16556 1RSM578AFVV A009 
39 本部町 上本部飛行場跡一帯 1977年11月24日 国土地理院所蔵 COK771-C17-2
41 那覇市辻原 1945年7月1日 米軍空撮 ON27821 1AD-28PRS 008
42 那覇市辻原 2010年9月27日 国土地理院所蔵 COK2010 1-C11-8
43 牧港住宅地区 1968年 写真

0000108912/056435
琉球政府関係写真資料 

44 牧港住宅地区 1970年5月5日 国土地理院所蔵 MOK701-C10-12
45 那覇新都心 1993年8月3日 国土地理院所蔵 OKC931-C48A-8
46 那覇新都心 2010年9月27日 国土地理院所蔵 COK2010 1-C10-10
47 南風原町兼城、宮平、与那覇一帯 1945年4月2日 米軍空撮 ON27835-CV20-103-012
48 南風原町兼城、宮平、与那覇一帯 2010年9月27日 国土地理院所蔵 COK2010 1-C13-14
49 糸満市西崎一帯 1945年4月17日 米軍空撮 ON24618 CV17-602 003
50 糸満市西崎一帯 2005年1月24日 国土地理院所蔵 COK2004 1X-C12-3
51 埋立許可願 糸満町  1951年  文書 R00073752B
琉球政府文書
52 沖縄市中央 1945年2月28日 米軍空撮 ON24146 3PR5M632V 018-2
53 沖縄市中央 2010年9月27日 国土地理院所蔵 COK2010 1-C1A-21
54 米軍作戦地形図 1:4800 AZAGAWA  SHEET 122  1948年 地形図

0000108935
対米請求権事業協会文書 

55 那覇市安謝方面を望む 1947~51年 写真 0000033546-1112,1115
W・ジェンキンス文書 
56 那覇市安謝~浦添市勢理客 1945年2月28日 米軍空撮 ON24146 3PR5M632V 007-2
57 那覇市安謝~浦添市勢理客 2005年1月24日 国土地理院所蔵 COK20041X C6-4
58 首里 1945年5月18日 米軍空撮 ON24605 CVE21 007 
59 首里 1977年12月13日 国土地理院所蔵 COK771-C58-11
60 首里 2010年9月27日 国土地理院所蔵 COK2010 1-C11-13
61 首里 丘の斜面を埋める着弾の跡 1945年 写真

0000112235/14-06-1
米空軍コレクション
第二次大戦シリーズ02 

62 名護市(旧名護町) 1945年2月28日 米軍空撮 ON24145 3PR5M63XX1BC 102-1
63 名護市役所一帯 1993年10月23日 国土地理院所蔵 OKC931-C22-6