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むかし沖縄 戦前の資料あれこれ

 平成30年9月18日から平成31年5月12日まで、当館展示室で所蔵資料展「むかし沖縄 戦前の資料あれこれ」を開催しました。

 第一尚氏が三山を統一して1429年に樹立した琉球王国は、1872年に日本政府によって琉球藩とされるまでの間、国として中国や日本、朝鮮半島、東南アジア諸国との交流を重ねてきました。
 とくに中国とは、王国統一以前の三山時代、1372年から明朝への進貢が始まり、密接な関係が築かれました。いっぽうで日本との関係は、天下統一を果たした豊臣秀吉が海外進出に動き出す過程で、主に軍事的な理由から緊張が生じていきました。
 1609年、薩摩島津氏による侵攻以降、琉球の社会は大きく変化しました。「古琉球」と呼ばれる平和の時代から、薩摩支配の近世琉球へ。さらに、明治維新によって近代国家として出発した日本に呑み込まれるようにして始まった沖縄の近代は、1945年の沖縄戦という帰結を迎えます。
 本展では、薩摩の琉球への干渉から沖縄戦直前までのおよそ350年間の歴史をたどり、琉球・沖縄の統治のありようを語る所蔵資料をご紹介します。

■琉球と薩摩
■琉球と中国
■琉球と江戸
■異国から内国へ
■大日本帝国下の沖縄

■琉球と薩摩

1.  島津義久から琉球国王尚寧への書状 天正18年8月21日 [1590]

この書状は、島津義久が尚寧(しょうねい)に対して、豊臣秀吉の関東平定を祝する綾舟(公式儀礼船)と管弦楽団を送るよう命じている。琉球使節派遣は遅延し、のち 1609 年に島津が琉球侵攻を正当化する要因となったとされる。『史徴墨宝 第二編 下巻』(1889年12月刊)所収の石版刷。

2. 中山王より島津求馬宛書簡 卯月六日

中山王 尚穆(しょうぼく)が、宜野湾王子の1790年の出府に際して、薩摩藩家老から品物を賜ったことに礼を述べた書状の写し。御印籠二、印籠掛一、大御盃七組、硯蓋一箱、菓子台一組、団羽三握、千代紙二百枚、煙草入三十、嶋織八丈五端その他の品物が記載されている。

■琉球と中国

3. 琉球国王尚穆為頒封事竣懇存旧礼事奏本

中国と冊封朝貢の関係を結んだ琉球王国は、国王が変わる度、皇帝からの冊封を要請した。この文書は、冊封された尚穆(しょうぼく)が皇帝に対し、「自分の面目を保つために、中国からの使者が宴金(慰労金)を一部収受するよう許可してほしい」と要望している内容である。

4-1. 雪堂燕遊艸 附世法録琉球考 程寵文 撰

程寵文(ていちょうぶん)は、久米村生まれの儒学者で名護親方として知られる程順則(ていじゅんそく)の別名。この詩集は、程が1696年に琉球使節の都通事として中国に渡り、福建から北京まで往復する間に読んだ漢詩を集めた漢詩集。

4-2. 雪堂燕遊艸 附世法録琉球考 程寵文 撰

4-3. 雪堂燕遊艸 附世法録琉球考 程寵文 撰

5. 琉球人行列彩色絵図

16回目の使節となった、尚育王(しょういくおう)就任の恩謝使を描いたもの。尚育は中国皇帝による冊封の礼を終えていなかったが、江戸へは国王として使者を送った。この時の琉球使節は全98人、同行する薩摩藩主とその従者を合わせると1,000人を超える大行列だった。沿道には、エキゾチックな琉球使節の行列を見物する人々が詰めかけ、琉球ブームが起こった。

■琉球と江戸

6. 中山王(尚敬)から土屋相模守宛書

琉球国王から幕府老中の土屋相模守へ宛てた書状。土屋相模守の君主の死去に哀悼を示す内容で、江戸へ向かう使節が持参したものの写しと思われる。国王尚敬(しょうけい)の花押がある。
土屋相模守政直(つちやさがみのかみまさなお)は土浦藩主、奏者番、大坂城代、京都所司代を経て老中に就任して4人の将軍に仕えた。

7-1. 琉球人屋良里之子碁譜

琉球使節の道中、文学の他にもさまざまな交流があった。本資料は江戸で行われた囲碁対局全16盤の記録。

7-2. 琉球人屋良里之子碁譜

7盤に屋良里之子(やらさとぅぬし)と本因坊道知(ほんいんぼうどうち)、8盤に屋良と相原可硯(あいはらかせき)、1番に田頭親雲上(たがみぺーちん)と井上因碩(いのうえいんせき)の碁譜がある。屋良は1710年、田頭は1748年の琉球使節。

8-1. 慶賀使浦王詠歌并香川景樹教文 浦添王子朝熹

浦王とは浦添王子朝熹(ちょうき・唐名は尚元魯)のこと。朝熹は沖縄三十六歌仙の一人で、書にも秀でた文化人。本資料は、朝熹が1842年の慶賀正使として参府した際に詠んだ和歌を集めて、京都桂園派の創始者である香川景樹(かがわかげき)が評を寄せたもの。文人どうしの交流を示す。

8-2. 慶賀使浦王詠歌并香川景樹教文 浦添王子朝熹

9. 中山伝信録 徐葆光 蘭園蔵板

中山伝信録は、尚敬王の冊封副使として仕えた清国の官僚・徐葆光(じょほこう)が琉球出張の復命書として著した。琉球の文物の観察や資料の研究、人士との交流から得た情報をもとにまとめあげ、「信を伝える」と自負して1721年に刊行された。本資料は、1766年に京都で訓点を付して復刻されたもので、江戸期日本における琉球理解の基本書となった。

10. 官刻 六諭衍義 全

六諭衍義(りくゆえんぎ)は、中国で用いられた庶民に生活理念を説く6項目の教訓解説書。琉球の程順則(ていじゅんそく)が福州留学中に譲り受けた書籍を重刻して広めた。島津家を通じてこれを知った将軍吉宗は、幕府として和訳・出版し、庶民教育のテキストとして用いることとした。

11. 夢樓詩集 王文治

王文治(おうぶんじ)の漢詩集。全24巻のうち、巻2の「海天遊草」は、1756年に尚穆王(しょうぼくおう)の冊封正使・全魁(ぜんかい)の従客として来琉した時の作品を集めたもの。
琉球で波之上で観月、停雲楼での琴の演奏などに興じたことがわかる。

12-1. 官板 琉球国志略 周煌 撰

1756年に尚穆王(しょうぼく)の冊封副使として来琉した周煌(しゅうこう)が、1757年にまとめた報告書。周煌は優秀な官吏かつ文人で、詩書に優れ、現存する作品も多い。
琉球国志略は、過去の冊封使録を集めて考証し、さらに16巻7部門に系統立てて要約した集大成的なもの。本資料は1831年に幕府学問所御版製本頒行所より再刊され、日本でも広く読まれた。

12-2. 官板 琉球国志略 周煌 撰

12-3. 官板 琉球国志略 周煌 撰

12-4. 官板 琉球国志略 周煌 撰

12-5. 官板 琉球国志略 周煌 撰

12-6. 官板 琉球国志略 周煌 撰

12-7. 官板 琉球国志略 周煌 撰

12-8. 官板 琉球国志略 周煌 撰

13-1. 琉球八景(泉崎夜月 龍洞松濤) 葛飾北斎

『琉球国志略』には多くの琉球の挿画も収録された。そのうち特に名勝を選んで「中山八景」とした挿画8枚をもとに、多色刷りの版を起こしたのが、葛飾北斎(かつしかほくさい)の「琉球八景」(1832年刊)である。これも琉球ブームの産物と言える。

13-2. 琉球八景(泉崎夜月 龍洞松濤) 葛飾北斎

14. 中山世譜 蔡温 編

『中山世譜』は、首里王府が編さんした琉球の正史で、2種類ある。1650年刊の「中山世鑑」をもとに蔡鐸(さいたく)が1697年から1701年にかけて漢訳補訂した「蔡鐸本」、蔡鐸の息子・蔡温(さいおん)が1724年から25年にかけて中国側の史料を参照してさらに改訂した「蔡温本」である。蔡温本はのち1876年まで書き継がれた。

15-1. 衝口發 藤原貞幹

藤原貞幹(ふじわらさだもと)は江戸中期の考証学者で日本書紀の研究などで知られる。この著書で、琉球の恵平屋(伊平屋)島にある天孫嶽を引いて、神武天皇の生誕の地とした。この説は、本居宣長(もとおりのりなが)が1821年の著書『鉗狂人』で批判した。

15-2.  衝口發 藤原貞幹

16. Account of a Voyage of Discovery to the West Coast of Corea, and the Great Loo-Choo Island; with an Appendix, containing Charts, and Various Hydrographical and Scientific Notices and a Vocabulary of the Loo-Choo Language
Basil Hall and H. J. Clifford, Esq. (『朝鮮西岸及び大琉球島探索航海記』)

イギリスの海軍士官バジル・ホールが1818年に著した『朝鮮西岸及び大琉球島探検航海記』。ホールは1816年9月にライラ号で沖縄に来航し一か月ほど滞在した。その時の見聞や経験をもとに日記体で記述されている。タイトルにあるGreat Loo-Choo Islandは大琉球島の意。1840年の第3版は、セントヘレナ島で懇談したナポレオンが武器のない島・琉球の話を聞いて一驚する逸話も加えられた。

18. 首里城におけるレセプション ウィリアム・ハイネ(原画)

アメリカ海軍提督のマシュー・ガルブレイス・ペリーは「黒船」を率いて江戸幕府に開国を要求したが、その途次で琉球に5度寄港した。
ペリー艦隊は画家や写真家を同行して、訪問地の情景を記録させた。それらは後に石版画の下絵となり、1856年に観光されたペリー提督の『アメリカ艦隊の支那海域及び日本への遠征記』として広まった。本資料は挿絵のうち、首里城を舞台にした3点の挿絵の複製。原本はウィリアム・ハイネの原画をもとにした着色石版画。

19. 琉球首里を訪れるペリー ウィリアム・ハイネ(原画)

20. 晩餐(琉球) ウィリアム・ハイネ(原画)

■異国から内国へ

21. 処蕃趣旨書 完 蕃地事務局

22. 絵はがき 琉球藩民の墓 台湾

1871年末、宮古島の貢納船が那覇からの帰途、台湾に漂着し、乗組員54人が現地の者に殺害された。1874年、日本政府は報復の「台湾征伐」と称して初めての組織的海外派兵をした。『処蕃趣旨書』は、蕃地事務所がその経緯をまとめたもの。蕃とは、未開の異民族や外国を指す。台湾出兵時、西郷従道(さいごうじゅうどう)らは「大日本琉球藩民五十四名墓」の墓碑を建てた。

24. 琉球王国尚泰為遣陪臣毛精長等進貢事表文

25-1. 府県管轄表 水原幸次郎

薩摩藩の附庸という扱いになっていた琉球王国は、明治維新の後、あらためて鹿児島県の管轄となった。1872年に、琉球「藩」として明治天皇から封じられた。

25-2. 府県管轄表 水原幸次郎

26. 琉球藩処分官一行

27-1. 沖縄県令鍋島直彬 私文書 内務卿伊藤博文より沖縄県令鍋島直彬宛

本資料は、後の総理大臣である伊藤博文(いとうひろぶみ)内務卿が、1979年10月8日付で初代沖縄県令の鍋島直彬(なべしまなおよし)に送った文書で、内務省用箋が使用されている。沖縄県当局は新県政に抵抗する琉球の旧士族ら100人余を逮捕・拷問し、9月に新県政への恭順を表明した旧三司官2人を県庁顧問官に採用した。伊藤はこの鍋島の措置に不快を示し、彼らを信用しないようにと警告し、厳重に問い詰めるよう指示した。

27-2. 沖縄県令鍋島直彬 私文書 内務卿伊藤博文より沖縄県令鍋島直彬宛

28. 福建巡撫張兆棟為琉球国貢使毛精長病故事題本

29.沖縄県首里城図

沖縄県立師範学校が左側に描かれている。師範学校は、沖縄県となった翌年1880年2月、教員養成目的で県庁学務課内に設置された「会話伝播所」を前身とする。会話伝播所は、同年6月に創設された師範学校に吸収される形で廃止となった。師範学校がこの絵のように当蔵龍潭のほとりに新築移転したのは1886年なので、その後の作と思われる。

30-1. 国会議員百首 伊東洋二郎 編

最後の琉球国王・尚泰(しょうたい)は、明治天皇に上京を命じられ、1879年5月以降は東京に居住した。1884年5月、天皇家の藩屏(はんぺい)という侯爵の位を授けられ、自動的に貴族院議員となった。本資料は国会議員の紹介記事とゆかりの和歌を収録したもの。

30-2. 国会議員百首 伊東洋二郎 編

■大日本帝国下の沖縄

39-1. 沖縄對話 上下 沖縄県学務課編

共通語(日本語)の教科書として沖縄県庁が作成。県の学務課職員が教師となり、首里言葉と対訳して記述した共通語による日常会話を、生徒に朗読させて学ばせたという。

39-2. 沖縄對話 上下 沖縄県学務課編

 

 

40. 沖縄県日誌 06

1880年5月から83年6月にかけての初代沖縄県令鍋島直彬(なべしまなおよし)の任期後半から、第2代県令上杉茂憲(うえすぎもちのり)を経て、第3代県令岩村通俊(いわむらみちとし)の任期前半におよぶ沖縄県の行政記録。日録形式で、県から政府各省庁への上申書類から人事往来などが詳細に書き留められている。

41. 沖縄県日誌 07 

42. 沖縄県宮古島々費軽減及島政改革請願書

1893年11月、宮古島の農民らは「人頭税(年齢別に課される頭割りの税制)」廃止と地租への移行、役人の削減、税の金納化という「島政改革」を掲げて上京し、帝国議会への請願行動に出た。本資料は農民代表の西里蒲(にしざとかま)と平良真牛(たいらもうし)の連名による作成。この農民運動は沖縄の旧慣温存策を見直す契機となったが、土地整理を経て人頭税が廃止されるまではなお10年近い歳月を要した。

43. 辞令書 任沖縄県中頭郡長 内閣総理大臣より西常央

長崎出身の西常央(にしつねのり)は、沖縄県設置の翌年1880年11月に沖縄県警部兼検事補となり、以後、島尻郡役所長、八重山島役所長を歴任し、1896年6月、首里役所長兼中頭役所長を退任した。

 44-1. 丸岡知事公演説

丸岡莞爾(まるおかかんじ)は、1888年9月から1892年7月まで約4年間、第3代沖縄県知事を務めた。甘蔗の作付制限を撤廃するなど、農業・経済政策の転換を図る一方、1890年に波上宮を官幣小社に列するなど、日本文化の導入を推進した。
この資料は、丸岡が沖縄着任当初、役所長級の幹部を集めて行った演説の速記録とみられる。沖縄県人を「夢にも外国人視する事なく充分叮寧(ていねい)にすべし」と心がまえを説いた。

44-2. 丸岡知事公演説

 

 

 

 

 

 

45. 記念帖 臨時沖縄県土地整理事務局

1902年に完了した土地整理事業に関連する写真集の口絵となった奈良原繁(ならはらしげる)のポートレート。
土地整理とは、琉球独特の土地の共有制を廃止するため、個人の土地所有権を認め、地租を金納とする一大改革だった。沖縄県の土地整理事業は、第4代沖縄県知事である奈良原の功績のなかでも特筆され、この記念帖の冒頭に肖像が載る。奈良原は16年間沖縄県知事を務め、土地整理の他にも公教育の普及など幅広い施策を展開した。一方で強権的な行政運営により、「琉球王」の異名をとり、謝花昇(じゃはなのぼる)らの提起した自由民権運動を徹底的に弾圧したことでも知られる。

46-1. 明治三十七、八年日露戦争日記 當間恵栄

日本では1889年に国民皆兵の原則が確立されたが、沖縄県には「従来ノ産業ヲ維持スルコト能ハサル者ノ徴集ヲ免除」との特例が付された。沖縄での「徴兵令」施行は1898年1月で、徴兵忌避を図る者、皇民の意気に燃える者などさまざまな葛藤が生じた。1904年に始まった日露戦争には、沖縄県出身兵約3,800人が従軍し、205人の戦没者が出ている。

46-2. 明治三十七、八年日露戦争日記 當間恵

47. 第一回沖縄県議会後の記念写真

土地整理事業に続く行財政制度改正の一環として、沖縄に県制が施行されたのは、他府県より30年遅れた1909年4月だった。
県政施行により県会議員選挙が行われ、2区5郡から30人の議員が選出された。この写真には、議事参与員及県会議員ら、第9代沖縄県知事の日比重明(ひびしげあき)が確認できる。

48-1. 島司郡区長会議へ提出事項

沖縄県庁内倹徳館で開かれた郡区長島司会への諮問事項。明治末年から大正初期、沖縄県でも行財政整理が課題となっていた。この第9代沖縄県知事日比重明(ひびしげあき)の演説大意においても「一面公的経済即ち公共団体に於て出来得べき経費の節約を図り一面私的経済即ち個人に於て勤倹を務め使め」として、区町村費緊縮を議題に挙げた。

48-2. 島司郡区長会議へ提出事項

48-3. 島司郡区長会議へ提出事項

49-1. 沖縄演習支隊衛生概況報告 伊藤祐次

陸軍の演習に同行した一等軍医の伊藤祐次による報告書。沖縄の演習が兵士の健康状態に影響を及ぼすかどうか調査した。鹿児島県で集合して来沖した部隊が1914年1月18日から23日までの実施した演習の内容がある。「安謝港付近に学生隊を加え演習施行、講評中学生、脳貧血を起きるもの九名あり」や、那覇の潟原で実弾射撃演習を実施したとの記述もある。

49-2. 沖縄演習支隊衛生概況報告 伊藤祐次

51-1. 嗚呼沖縄県 第51回議会貴族院本会議に於ける質問演説萃 大城兼義(おおしろけんぎ)

大城兼義(おおしろけんぎ)は小禄出身の政治家。移民事業や金融業などを手掛け、1925年から32年まで貴族院議員、県内地方議会でも活躍した。県内の政治経済の革新を模索し、国政の場では国の支援を強く要請した。
沖縄では県会設置も他府県に30年遅れたが、沖縄県選出議員の国政参加も、1912年3月29日の勅令「沖縄県ニ衆議院議員選挙法施行ノ件」の公布施行で実現した。1890年11月の第一回帝国議会から22年後のことである。

51-2. 嗚呼沖縄県 第51回議会貴族院本会議に於ける質問演説萃 大城兼義

51-3. 嗚呼沖縄県 第51回議会貴族院本会議に於ける質問演説萃 大城兼義

53. 沖縄県振興計画説明書 沖縄県

井野次郎(いのじろう)は群馬県出身で第22代沖縄県知事。砂糖価格の暴落などさまざまな要因で沖縄経済は疲弊し、戦時体制も強まる中で、井野は1930年8月の就任早々に「沖縄県振興計画」を立案し、1931年には閣議決定に持ち込んで1933年から実施するという手腕を発揮した。

54-1. 井野次郎知事事務引継書 沖縄県 2-1

第22代沖縄県知事井野次郎(いのじろう)から後任の第23代蔵重久(くらしげひさし)あての事務引継書。振興計画実施状況、県政各分野での課題、参考資料など、大部に及ぶ。本資料は井野の転出先だった宮城県庁に保管されていたもので、1993年、宮城県のご厚意により沖縄県に寄贈された。

54-2. 井野次郎知事事務引継書 沖縄県 2-1

55-1. 久松五勇士美談 沖縄県宮古郡教育部会

日露戦争のさなかの1905年5月25日、宮古島へ航行中の帆船からロシアのバルチック艦隊らしきものを発見したとの報を受け、宮古島の青年5人が129km離れた石垣島の無線局までサバニを力漕し「敵艦見ゆ」と中央に打電させた。
当時は知られなかった彼らの行動が美談としてよみがえり、30年後の1935年、日露戦争記念海軍記念日に海軍大臣から五勇士として表彰されて、国策映画の題材にもなった。

55-2. 久松五勇士美談 沖縄県宮古郡教育部会

55-3. 久松五勇士美談 沖縄県宮古郡教育部会

56. 名護市土木出張所 辺野喜山林事務所 記念写真

2枚の写真の前列中央が第23代沖縄県知事の蔵重久(くらしげひさし)。在任中は県軍事後援会や国民精神総動員実行委員会を結成するなど総力戦体制の基礎固めに尽力した。
この写真は、国有林を無償で80年間借り受けて造林事業を進めていた国頭村辺野喜と、県名護土木出張所をそれぞれ視察した時のもの。

57-1. 石垣島開発と沖縄振興 沖縄県総務部

渕上房太郎(ふちがみふさたろう)は第24代沖縄県知事。1938年から41年まで在任。国家総動員体制の構築、八重山開発や満蒙への開拓移民団派遣、大政翼賛会沖縄支部発足などを進めた。戦後は衆議院議員として沖縄返還に取り組んだ。
「時局の重圧が沖縄振興計画を変更」と述べて、井野知事が進めた沖縄振興計画が順調に進んでいないこと、振興計画以外の振興方策として、分蜜工場、アルコール工場の誘致などの石垣島開発が県全体の発展の要であると演説した。

57-2. 石垣島開発と沖縄振興 沖縄県総務部

58-1. 世態調査資料 第18号 部外秘 司法省調査部

1939年3月16日、那覇地方裁判所会議室で行われた意見交換会の記録。裁判所側は那覇地裁所長以下6人、検事局側は検事正以下4人が出席し、糸満小学校校長の玉城泰一から聞き取りをしている。
遠洋まで出漁する漁民の町・糸満の「個人主義」が関心の的となる中で、玉城校長は「糸満は決して個人主義の部落ではなく寧ろ日本固有の大家族主義を保存する部落であります」と強調した。

58-2. 世態調査資料 第18号 部外秘 司法省調査部

59. 興行芝居筋書 沖縄芝居興行許可添付資料

演劇興行脚本は、内務省でなく警視庁の認可を受けることとされていた。本資料には、首里警察署の1930年9月31日受付印、上部の欄外に「昭和5年12月1日許可ス」との文言がみえる。時代劇・現代劇ともに多数の芝居筋書きがつづられていて、当時の世相が伝わる。

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60. 第二十五代早川元知事を迎える 金武村

写真前列右から三人目が長野県出身の第25代沖縄県知事・早川元(はやかわはじめ)。1941年1月に着任し、標準語励行運動や、拓南訓練所の開設・南方調査室の設置・南方開発沖縄県漁業報国隊派遣といった南進国策の推進、食料増産体制の確立などに努めた。名護警察署視察時の記念写真。

61. 宮城文 辞令書 標準語勵行委員嘱託

日本との同化の過程で、生活言語である沖縄語は標準語(日本語)を習得する障害とみなされることが多かった。戦時下の国民精神総動員体制で1939年作成の「沖縄県教育綱領」のひとつに標準語励行が掲げられ、翌年に「挙県的一大運動」となって、県内各地で励行委員が指名された。
この辞令を受けた宮城文(みやぎふみ)は、八重山群島から初めて沖縄県立第一高等女学校に進み、晩年は「八重山生活誌」を著すなどして、郷土文化の伝承に尽くした。

62-1. 八重山神社及護国神社関係資料

1940年8月、紀元2600年記念八重山神社建立奉賛会が結成された。奉賛会は敷地として現・石垣市大川の大石垣御嶽を選定し、1941年には建設寄付募集が大々的に行われた。本資料は、八重山神社地鎮祭々文原稿と紀元二千六百年記念八重山神社建設趣意書。

62-2. 八重山神社及護国神社関係資料

63-1. 例規綴 庶務 大正三年以降 八重山島庁 市町村長会議における知事訓示要旨

真珠湾攻撃、米英両国への宣戦布告を受けて、市町村長会議が開催され、開戦詔書奉読が行われた。当日の知事訓示は印刷されて配布された。この時の知事は早川元。

63-2. 例規綴 庶務 大正三年以降 八重山島庁 市町村長会議における知事訓示要旨

63-3. 例規綴 庶務 大正三年以降 八重山島庁 市町村長会議における知事訓示要旨

64-1. 沖縄県人南方発展史要綱 安里延

安里延(あさとのぶ)は名護出身、文部省教科書調査官、沖縄県教学課長などを務めた。1942年に南方司政官としてフィリピンに赴任。沖縄県海外協会に求められて執筆した『沖縄海洋発展史』(1941年刊)は琉球と日本、中国、朝鮮、東南アジア諸国との交易を古代から通史的に論じた。本書はその普及版。平和な交易の歴史が、国策としての南進論に塗り替わっていく時代を見ることができる。

64-2. 沖縄県人南方発展史要綱 安里延

64-3. 沖縄県人南方発展史要綱 安里延

65. 感謝状 銘苅正太郎

銘苅正太郎(めかるしょうたろう)は伊是名村出身の医師。沖縄県出身者として初めて1914年に東京麻布に長生医院を開業、耳鼻咽喉科の名医で知られた。後藤新平(ごとうしんぺい)をはじめ、日本政府要人との人脈を活かして、沖縄への支援に努めた。

66-1. 琉球の支那に通ぜし端緒/幣原坦 『史学雑誌』第06編 第09号

日琉同祖論の多くは、琉球の中国とのつながりを否定した。幣原坦(しではらたいら)の論考でも、琉球の神話に記述された天帝子や天孫氏は「日本」に起源を持つ人種であり、これは琉球が「我本国とは神代より已(すでに)に好(よしみ)を通じていた」ことを意味し、「琉球は古昔我本国にこそ服属したれ、毫(いささか)も支那と関係なかりしことを知るに足る」とされている。

66-2. 琉球の支那に通ぜし端緒/幣原坦 『史学雑誌』第06編 第09号

67. 沖縄は古来我か版図たり/山下重民 『風俗画報 臨時増刊 沖縄風俗図会 第117号』

山下重民(やましたしげたみ)は、もともと中国が冊封していた琉球を日本が明治維新の「寄功」によって手に入れたという見方があることを批判した。沖縄が古来日本の領土である根拠として、「中山世譜」や「球陽」に出てくる天孫氏、日本書記、為朝渡琉伝説などを挙げた。『風俗画報』は当時の数少ない大衆向けグラフ誌。東京都出身の山下は大蔵省記録局勤務のかたわら、雑誌編集を手がけた。

68-1. 混効験集 一名琉球の内裏言葉/田島利三郎 『国学院雑誌』第04巻 第03号

田島利三郎(たじまりさぶろう)は新潟県生まれの教育者、沖縄研究家。1893年に沖縄県尋常中学の国語教諭に着任し、1897年まで沖縄で過ごした。『おもろそうし』など琉球文学資料の収集・研究に先駆的な業績を残した。
この論考で、田島は「琉球は往古よりわが国の一部分なりき」という自説の補強として琉球国時代の識者・宜湾朝保(ぎわんちょうほ)の解釈を紹介する。宜湾は、古事記伝や万葉集の語彙をもとに「国語」と「琉語」が同語だとしていた。田島は、同語同祖ゆえに、明治の廃藩置県は琉球の「人民をして永く大日本帝国臣民として万世一系の皇室を戴」かせるものと称賛した。

68-2. 混効験集 一名琉球の内裏言葉/田島利三郎 『国学院雑誌』第04巻 第03号

69. 『風俗画報』臨時増刊 第5回内国勧業博覧会図会 上編

内国勧業博覧会は国内の殖産興業を目的として始まり、1903年に大阪・天王寺で開催された第5回が最後となった。第5回博覧会のパビリオンのひとつ「学術人類館」は、アイヌや台湾「生蕃」、朝鮮人、支那人、印度人、爪哇(じゃわ)人、バルガリー人らと琉球人の「陳列」を予告して3月10日に開館した。
4月、琉球新報が「沖縄県民の頭上に大なる侮辱を加えた」として抗議し、5月には琉球の「陳列婦人」が「撤去」された。

71-1. 琉球人種論 全 伊波普猷

後年「沖縄学の父」と称される伊波普猷(いはふゆう)が、35歳で世に出した最初の単行本。琉球が日本の版図となったことについて、「自分は明治初年の国民的統一の結果半死の琉球王国は滅亡したが琉球種族は蘇生して端なくも二千年の昔手を別った同胞と邂逅して同一の政治の下に幸福なる生活を送るようになったとの一言でこの稿を結ぼう」と評価した。

71-2.  琉球人種論 全 伊波普猷

72. 河村只雄資料より 宮古のツカサたち 昭和11年~15年民族調査写真 07-06

ツカサとは土着の神事を執り行う神女のこと。

73. 小林純資料より 波之上祭

波之上祭は、1890年に波上宮が官幣小社となってから始まった例祭。寄留商人らが主体となる日本風の祭りとして楽しまれた。写真に写る少女は巫女の扮装。

74. 椿説弓張月 為朝実伝 曲亭馬琴

琉球では非力な尚寧王(しょうねいおう)らが王座を奪われていたが、為朝は寧王女(ねいわんにょ)と結ばれ、その息子・舜天丸(すてまる)が王位を取り戻すというストーリー。

75. 為朝 琉球軍記 五版 大川屋書店

「為朝」とあるが、内容は島津の琉球侵入を小説化したもの。

番号 展示資料件名 資料年代 西暦

閲覧用資料
コード等

■琉球と薩摩
1 島津義久から琉球国王尚寧への書状 天正18年8月21日 [1590] 明治22年刊 1590 0000007658
2 中山王より島津求馬宛書簡 卯月六日 寛政3年4月6日 1791 0000065051/MF 
■琉球と中国
3 琉球国王尚穆為頒封事竣懇存旧礼事奏本 乾隆21年10月12日 1756 0000003547
4 雪堂燕遊艸 附世法録琉球考 程寵文 撰 康熙53年刊 1714 T00012458B/MF
5 琉球人行列彩色絵図   天保3年 1832 T00015284B 
■琉球と江戸
6 中山王(尚敬)から土屋相模守宛書 正徳4年4月27日 1714 0000065051/MF 
7 琉球人屋良里之子碁譜 寛永7年 1710 T00012501B/MF
8 慶賀使浦王詠歌并香川景樹教文 浦添王子朝熹 天保13年 1842 T00012460B /MF
9  中山伝信録 徐葆光 蘭園蔵板   明和3年刊 1766 T00012504B/MF 
10  官刻 六諭衍義 全 享保6年刊 1721 T00012500B/MF
11 夢樓詩集 王文治 乾隆60年刊 1795 T00012458B/MF
12 官板 琉球国志略 周煌 撰 天保2年刊 1831 T00012507B/MF
13 琉球八景(泉崎夜月 龍洞松濤) 葛飾北斎 天保3年 1832 T00016949B
14 中山世譜 蔡温 編 乾隆36年刊 1771 T00012517B/MF
15 衝口發 藤原貞幹  天明元年刊 1781  T00012516B/MF
16 Account of a Voyage of Discovery to the West Coast of Corea, and the Great Loo-Choo Island; with an Appendix, Containing Charts, and Various Hydrographical and Scientific Notices and a Vocabulary of the Loo-Choo Language Basil Hall and H. J. Clifford, Esq. (『朝鮮西岸及び大琉球島探検航海記』) 1818 0000025988
18  首里城におけるレセプション ウィリアム・ハイネ(原画) 1853頃 T00012502B /MF
19 琉球首里を訪れるペリー ウィリアム・ハイネ(原画) 1853頃 T00012502B /MF
20  晩餐(琉球) ウィリアム・ハイネ(原画) 1853頃 T00012502B /MF
■異国から内国へ
21 処蕃趣旨書 完 蕃地事務局 明治8年1月 1875 0000065044 /MF
22 絵はがき 琉球藩民の墓 台湾  - T00016978B
24 琉球国王尚泰為遣陪臣毛精長等進貢事表文 同治13年8月初4日 1874 0000003620
25 府県管轄表 水原幸次郎 明治9年12月 1877 0000065044/MF
26 琉球藩処分官一行 明治12年  1879 T00021952B 
27 沖縄県令鍋島直彬 私文書 内務卿伊藤博文より沖縄県令鍋島直彬宛 明治12年10月8日 1879 寄託資料(松岡政保文書)
28  福建巡撫張兆棟為琉球国貢使毛精長病故事題本  光緒10年12月21日 1884 T00012275B/MF
29 沖縄県首里城図 T00016943B
30 国会議員百首 伊東洋二郎 編 明治24年12月刊 1891 T00015806B
■大日本帝国下の沖縄
39 沖縄對話 上下 沖縄県学務課編 明治13年12月刊 1880 T00016128B
40 沖縄県日誌 06 明治15年2月  1882 T00001134B
41 沖縄県日誌 07 明治15年3月 1882  T00001135B
42  沖縄県宮古島々費軽減及島政改革請願書 明治26年12月 1893 T00015799B
43 辞令書 任沖縄県中頭郡長 内閣総理大臣より西常央 明治29年4月1日 1896 0000087091
44 丸岡知事公演説 明治21年 1888 0000087151
45 記念帖 臨時沖縄県土地整理事務局 T00022298B
46 明治三十七、八年日露戦争日記 當間恵栄 明治37~38年 1904~05 T00020716B
47  第一回沖縄県議会後の記念写真 明治42年7月 1909 0000065852
48 島司郡区長会議へ提出事項 大正2年 1913 T00015716B
49 沖縄演習支隊衛生概況報告 伊藤祐次 大正3年1月  1914 T00015714B
51 嗚呼沖縄県 第51回議会貴族院本会議に於ける質問演説萃 大城兼義 大正15年3月22日 1926 T00015952B
53 沖縄県振興計画説明書 沖縄県 昭和6年6月 1931 G00019334B
54 井野次郎知事事務引継書 沖縄県 2-1 昭和10年7月  1935 P00013259B
55 久松五勇士美談 沖縄県宮古郡教育部会 昭和9年7月10日 1934 T00009584B
56 名護土木出張所 辺野喜山林事務所 記念写真 昭和12年 1937 0000028673
57 石垣島開発と沖縄振興 沖縄県総務部 昭和13年12月16日 1938 G00019662B
58 世態調査資料 第18号 部外秘 司法省調査部 昭和14年 1939 G00020111B
59 興行芝居筋書 沖縄芝居興行許可添付資料 昭和5年 1930 0000010108
60 第二十五代早川元知事を迎える 金武村 昭和16年 1941 0000028538
61 宮城文 辞令書 標準語勵行委員嘱託 昭和14年7月11日 1939 0000048806
62  八重山神社及護国神社関係資料 昭和15年 1940 0000011673
63 例規綴 庶務 八重山島庁 市町村会議における知事訓示要旨 昭和16年12月 1941 R00159088B /MF
64 沖縄県人南方発展史要綱 安里延 昭和17年10月刊 1942 T00007642B
65 感謝状 銘苅正太郎 昭和18年7月27日 1943 0000015190
66 琉球の支那に通ぜし端緒/幣原坦  『史学雑誌』第06編 第09号 明治28年9月刊 1895 T00011030B
67 沖縄は古来我か版図たり/山下重民 『風俗画報 臨時増刊 沖縄風俗図会 第117号』 明治29年6月刊 1896 T00016308B
68 混効験集 一名琉球の内裏言葉/田島利三郎 『国学院雑誌』第04巻 第03号 明治31年1月刊 1898 T00006134B
69 『風俗画報』臨時増刊 第5回内国勧業博覧会図会 上編 明治36年6月刊行 1903 T00004383B
71 琉球人種論 全 伊波普猷 明治44年3月25日 1911 T00013788B
72  河村只雄資料より 宮古のツカサたち 昭和11年~15年民族調査写真 07-06 昭和13年 1938 T00022426B
73 小林純資料より 波之上祭 昭和14年5月17日 1939 0000067299
74 椿説弓張月 為朝実伝 曲亭馬琴 明治20年8月 1887 T00004492B
75 為朝 琉球軍記 五版 大川屋書店 明治43年1月 1910 T00012465B/MF