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日本復帰への道

平成24年5月15日から8月19日まで、日本復帰40周年記念特別展「日本復帰への道」を当館展示室にて開催しました。
戦前の〈ヤマト世〉から戦後の〈アメリカ世〉を経て、再び〈ヤマト世〉へ戻る道のりとその後の沖縄を振り返ります。特に、住民の間で〈祖国日本〉という意識はどのように芽生えていったのか、アメリカ統治下で県民が求めたものは何か、復帰して変わったもの、変わらなかったものは何か、などの問いに記録資料で迫ります。
【展示構成】
Ⅰ.琉球処分と〈ヤマト世〉
Ⅱ.沖縄戦と〈アメリカ世〉のはじまり
Ⅲ.アメリカによる統治体制の強化
Ⅳ.復帰運動
Ⅴ.日米による沖縄返還交渉
Ⅵ.復帰への道~最終章
Ⅶ.新生沖縄県

Ⅰ.琉球処分と〈ヤマト世〉

今からちょうど140 年前の1872(明治5)年、明治政府によって、それまで独立国家として約450 年間続いた琉球国が解体され、琉球藩が設置されました。その7 年後の1879(明治12)年には廃藩置県により、琉球藩が廃止され沖縄県が誕生しました。
その後、日本は〈富国強兵〉〈殖産興業〉のスローガンの下、近代国家作りに力を入れ、沖縄も例外なくその体制に組み込まれていくことになります。そして、さまざまな分野で近代化を達成した日本は、やがて日清戦争、日露戦争で勝利し、第1 次世界大戦では戦勝国の一員になったことで大国の仲間入りを果たします。その後も日中戦争、第2 次世界大戦と戦争の道をつき進み、ここ沖縄は第2 次世界大戦の最後の決戦場となりました。
ここでは、琉球処分から第2 次世界大戦開戦までの約70 年間、つまり琉球国の終焉から大日本帝国下の〈ヤマト世〉への世替わりの中で、〈日本人〉になっていく過程を紹介します。

1.沖縄県の誕生

1879(明治12)年、日本の一県となった沖縄でしたが、行政は、鍋島直彬(なべしまなおよし)(初代)、上杉茂憲(うえすぎもちのり)(第2代)ら中央から派遣される県令(後の県知事)を中心に行われました。
廃藩置県の後は、琉球処分に不満をもつ士族や、先島分島問題で緊張関係にあった清国への配慮などから、明治政府は急激な改革を避け、琉球国時代の〈旧慣温存〉の施策を図る慎重な姿勢をとりました。一方で、学校の設立や教科書『沖縄對話』を使用した日本語教育など、日本人としての教育に力を入れていきました。
1895(明治28)年、日清戦争での勝利により、両国間で懸案となっていた先島分島問題が解決すると、明治政府は沖縄の同化政策に力を入れるようになります。その後沖縄は、急速に日本の国家体制に組み込まれていきました。
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1 沖縄県の誕生
1 公文録 明治12年4月各局 内閣書記官局[琉球藩ヲ廃シ沖縄懸ヲ置ク]
1879年(明治12)4月4日 国立公文書館蔵
0000044390
2 明治12年 琉球藩処分官一行 1879(明治12)年 熊谷次郎 T00021952B
3 沖縄對話 1880(明治13)年 沖縄県学務課 T00016128B
4 沖縄縣日誌十 1881年(明治14)~1882年(明治15)上杉邦憲 T00001124B他
5 大日本管轄分地図 1900(明治33)年 後藤常太郎 T00015907B

2.明治政府と近代化

明治政府による同化政策は国家の近代化と並行しておし進められ、沖縄にもその波が押し寄せました。その一つが徴兵制度と税制改革でした。1898(明治31)年の「徴兵令」による日露戦争へ出兵、1899(明治32)年の「土地整理事業」による個人の土地所有認可とそれに伴う課税など、新制度により人々の生活も大きく変化していきました。
一方、沖縄と本土の民衆の間では、偏見と反発が行き交う、感情的なあつれきが生じていました。そのような中、言論人は、さまざまな主張を展開しました。例えば、太田朝敷(おおたちょうふ)(「琉球新報」創設者)は、日本人と同等の市民権を得るためには、外形上も日本人同様ふるまうべきとし、クシャミですら彼らをまねよ、とする〈同化論〉を強く主張しました。また、伊波普猷(いはふゆう)は、日本人と沖縄人はその源を同じくするという、「日琉同祖論」を唱えながらも、沖縄固有の文化や歴史を検証し、そこに高い価値を見出していきます。
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2・3 明治政府と近代化・戦争への道
6 碎部測量簿 八重山郡與那國村字鬚川田 1900(明治33)年
臨時沖縄県土地整理事務局
0000077108
7 記念帖 年代不明 臨時沖縄県土地整理事務局 T00022298B
8 明治三七・八年日露戦争日記 當間恵栄 T00020716B
9 伊波普猷『古琉球』 1911(明治44) T00013794B
10 廣津和朗著「さまよへる琉球人」に対する沖縄青年同盟からの抗議書
『中央公論』第41年第5号第460号 1926(大正15)年
T00013281B
11 砂糖関税ニ関スル陳情書 1937(昭和12)年 沖縄県農会 産業団体 0000042271
12 沖縄県産出黒糖・白下糖及分蜜糖ノ消費税改正ニ関スル陳情書
昭和11年7月13日 沖縄県農会ほか団体
0000042271
13 食料増産決戦記 1943(昭和18)年 0000066088
14 標準語励行委員ヲ嘱託ス 1939(昭和14)年 宮城文関係文書(辞令書等) 0000048791
15 感謝状 1942(昭和17)年 宮城文関係文書(辞令書等) 0000048794
16 10.10空襲 1944(昭和19)年10月10日 ゴードン・ワーナー文書 0000071401

Ⅱ.沖縄戦と〈アメリカ世〉のはじまり

 1945(昭和20)年3月、米軍がついに沖縄に上陸しました。日本本土防衛の最後の〈砦〉とされた沖縄では、その後約3カ月にわたって日米両軍による激しい戦闘が繰り広げられました。
沖縄戦は日米双方で20万人もが命を落とす壮絶な戦いでしたが、県民も約4人に1人が犠牲になりました。沖縄戦の特徴の一つは、軍人よりも民間人のほうに多くの犠牲が出たことでした。また、混乱する戦場においては自国軍によって住民が殺害されたり、死に追い込まれたりする出来事も発生しました。大日本帝国の一員として戦争の一端を担った沖縄でしたが、このような悲惨な経験から、戦争を生き抜いた人々は「2度と戦争はしてはいけない」という思いを強く抱くようになりました。この戦争体験を抜きに戦後の沖縄社会を考えることはできません。
日本とは歴史も文化も制度も違う〈アメリカ世〉の下、人々は何を思い、どう行動したのでしょうか? ここでは、敗戦から講和条約締結までの占領期の沖縄社会の変遷を紹介します。

1.〈ヤマト世〉の終わり

 米軍は1945(昭和20)年3月に沖縄に上陸すると海軍軍政府布告第1号「権限の停止」(通称「ニミッツ布告」)を公布し、住民に対して日本の行政権が停止されたことを通告しました。
その後、約3カ月にわたる死闘の末に沖縄戦で勝利をおさめた米軍は、すぐに日本本土攻略の準備に取り掛かりました。しかし、8月15日、大日本帝国政府はついに「ポツダム宣言」を受諾して無条件降伏し、第2次世界大戦が終結することになりました。
9月7日、沖縄では現地軍同士による降伏文書調印式が行われ、沖縄戦が正式に幕を閉じました。 ここに、琉球処分から約70 年に及んだ〈ヤマト世〉が終わりを告げました。
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1 1.〈ヤマト世〉の終わり
17 米国海軍軍政府布令第1号(ニミッツ布告) 1945(昭和20)年 0000071118
18 防空壕、通り、壊れた壁、何もない敷地 1945(昭和20)年 米空軍写真 0000112235
(14-11-3)
19 那覇の目抜き通りをあてもなくさまよう、年老いた沖縄人 1945(昭和20)年5月30日 米海兵隊写真 0000112255
(78-12-1)
20 降伏文書 1945(昭和20)年9月7日 米国国立公文書館 0000017549
21 琉球の降伏 1945(昭和20)年 米陸軍写真 0000112188
(02-49-1)
22 日本軍が降伏したことを通訳から聞き喜ぶ沖縄の地元民 1945(昭和20)年8月15日 米海兵隊写真 0000112257
(79-16-1)

2.新たな時代の幕開け

 日本がポツダム宣言を受諾した日と同じ8月15日、米軍は各収容所から戦前の県会議員や校長などを呼び集め、米軍政府への諮問機関である「沖縄諮詢会」を設置しました。9月20日には、沖縄本島の収容地区で初めての選挙(市会議員選挙)が実施されました。この選挙では、戦前を通じても初めて女性に参政権が与えられるなど、人々に民主主義の国アメリカを実感させるものでもありました。
沖縄諮詢会は1946(昭和21)年4月に「沖縄民政府」に改編され、本格的な住民自治組織が発足しました。やがて、政治的な営みも活発になり、「沖縄民主同盟」「沖縄人民党」「社会党」「民主党」「共和党」など、政党が次々と結成されました。人々は戦後の沖縄のあり方について活発に議論を交わしました。
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2 新たな時代の幕開け
23 沖縄諮詢会会議録 01-2 1945(昭和20)年08月30日~ 0000061090
24 [沖縄民政府のメンバー] 年代不明 照屋榮一文書 0000026526
25 沖縄人民党に関する書類綴 1948(昭和23)年1月~ pp.1-90 pp.91-182 0000062834
26 沖縄民主同盟に関する書類 1948(昭和23)年1月~ 沖縄群島政府総務部行政課 0000062820
27 共和党に関する書類 1950(昭和25)年11月6日~ 沖縄群島政府総務部行政課 0000072859
28 [波の上] 1948(昭和23)年 米空軍写真 0000112235
(14-10-4)
29 [選挙の様子] 1948(昭和23)年 米空軍写真 0000112240
(15-56-2)
30 [屋根葺き] 1948(昭和23)年 米空軍写真 0000112240
(15-56-3)

3.〈冷戦〉と日本からの分離

 アメリカは、日本の降伏以前から、戦争に勝った場合の沖縄の処遇をどうするか議論していました。その中でも軍部は、太平洋地域の安全保障を確保するためには沖縄をアメリカの信託統治下におくべきだと主張していました。
1946(昭和21)年1月29日、日本占領軍の最高司令官であるマッカーサーは、北緯30度以南の南西諸島を日本から分離する決定を下しました。その結果、沖縄は本土とは全く違う道を歩むことになります。日本本土で実施された、新憲法の発布を含む数々の民主化政策は、沖縄には適用されませんでした。
やがて、ソ連による原爆開発、中華人民共和国の成立など、東アジアにおける共産主義諸国との〈冷たい戦争〉が激しさを増してくると、アメリカは当初の日本非武装化の方針を捨て、日本を軍事的同盟者として育成する方向へと方針転換しました。その方針の前提となったのが、〈日本の再軍備〉〈米軍駐留〉のほか、〈沖縄の分離支配〉でした。
この基本方針に基づいて、沖縄では基地建設が本格化し、米軍政府の民政府への改編、地元中央政府の設置など、長期安定統治のための足固めが進められました。
そして、1952(昭和27)年、日本が講和条約によって独立国として国際社会に復帰した時、沖縄は正式に日本から分離され、アメリカの施政権下に置かれることになりました。
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3 〈冷戦〉と日本からの分離
31 『琉球列島に関する民事ハンドブック』1944(昭和19)年11月 米国海軍 0000025268
32 (天皇メッセージ)Emperor of Japan’s Opinion Concerning the Future of the Ryukyu Islands 0000017550
33 中国へ売却される米軍の戦時余剰品 1946(昭和21)年 10月 31日 米海軍写真 0000112183
(115-15-3)
34 那覇にある海軍航空施設の空中斜め写真 1948(昭和23)年10月20日 米海軍写真 0000112182
(114-33-4)
35 Conversation between General of the Army MacArthur and Mr. George F. Kennan 1948 0000030208
36 マッカーサー将軍 嘉手納基地にて 1950(昭和25)8月1日年 米陸軍写真 0000112208
(05-34-1))
37 琉球列島米国民政府に関する指令 1950(昭和25)年12月5日 極東軍 R00001152B

Ⅲ.アメリカによる統治体制の強化

 アメリカ政府は、沖縄の基地を半永久的に使用する方針を固めると、本格的な恒久基地建設に取りかかりました。そして、1952(昭和27)年の講和条約で正式に沖縄の施政権を獲得すると、次々に布令を発して土地の強制収用を開始しました。しかし、こうした強硬政策はやがて住民からの反発を招き、効果的な基地の運用にも支障をきたすようになります。そこで米軍はさまざまな施策を実施して、統治体制の安定化を図ろうとしました。
しかし、米軍がいかに統治体制を安定化させようとしても、軍事を優先させる政策には違いなく、統治者と被統治者の利害が対立することがしばしばでした。
ここでは、講和後のアメリカの軍事優先政策とそれがもたらした住民生活へのさまざまな影響をを中心に紹介します。

1.〈太平洋の要石〉と〈島ぐるみ闘争〉

 1952(昭和27)年の講和条約後、軍用地使用の法的根拠を確固たるものにするため、米軍は地主と正式に契約を結ぼうとしました。しかし、米軍が提示した地代の安さと契約期間の長さなどにより、当初、契約に応じる地主はほとんどいませんでした。そこで米軍は、新たな布令を発して、1953(昭和28)年の真和志村安謝・銘苅や小禄村具志を皮切りに、武装兵を出動させて次々と土地を接収していきました。
1954(昭和29)年3月、米軍政府は、接収した軍用地に対しては地料を一括で払うという方針を発表しました。これを土地の買い上げと見た住民はこれに反発し、方針を撤回するよう要請しました。そして、1955年には伊江村真謝、宜野湾村伊佐浜などで強制収用が実施されました。
1956(昭和31)年6月、米軍による軍用地政策をおおむね是認する米国議会の勧告が出されると、激しい反対運動がまたたく間に沖縄全土に広がりました。この〈島ぐるみ闘争〉は、日本復帰運動とも相まって激しさを増していきました。これを受けて、米当局は1958年頃から沖縄統治政策の見直しに着手しました。その中で、必要な基地の権利を確保した上で施政権を返還するという「飛び地」返還構想も浮上していました。
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1 〈太平洋の要石〉と〈島ぐるみ闘争〉
38 沖縄訪問の際、全島視察をする国防次官ハンナ氏 1953(昭和28)年 米陸軍写真 0000112226
(07-83-1)
39 [沖縄を訪問したニクソン副大統領] 1953(昭和28)年11月20日 米海軍写真 0000112183
(115-07-1)
40 非番の日に「八月十五夜の茶屋」を訪れる琉球軍の兵士 1954(昭和29)年7月20日 米陸軍写真 0000112227
(08-10-2)
41 軍用接収地 宜野湾伊佐浜 「金は一年土地は万年」の幟 1955(昭和30)年7月 琉球政府写真真 0000108753
(012099)
42 メルビン・M・プライスを団長とする米下院軍事委軍用地問題調査団7人来沖  1955(昭和30)年10月23日 琉球政府写真 0000108919
(057736)
43 宜野湾村伊佐浜立退者に対する代替地購入資金関係書類 1956(昭和31)年3月 琉球政府法務局土地課 R00020536B
44 プライス勧告 1956(昭和31)年6月9日 米国下院軍事委員会特別分科委員会 0000030365
45 軍用地四原則貫徹住民大会各市町村単位で開催 1956(昭和31)年6月20日 琉球政府写真 0000108868
(044255)
46 [軍用地四原則貫徹大会各市町村単位で開催] 1956(昭和31)年 6月20日 琉球政府写真 0000108926
(058901)
47 プライス勧告とその反論 1956(昭和31)年7月 四原則貫徹実践本部 R00020577B
48 収用宣告書 布令109号 宜野湾村 収用委員会裁決 1956(昭和31)年12月 琉球政府軍用地関係事務所 R00047799B
49 那覇市長選挙立会演説会 1958(昭和33)年1月4日 琉球政府写真 0000108928
(059384)
50 Memo for Dulles from Robertson U90006116B
51 ドル切り替え 1958(昭和33)年 9月16日 USCAR写真 0000112303
(10-49-2)

2.〈民主主義のショーウィンドー〉

 アメリカは、戦争の教訓から、戦後は軍国主義日本を非武装・民主国家にすることを基本目標にしました。その方針に基づいて、日本本土では、〈婦人参政権付与〉〈労働組合法の制定〉〈教育制度改革〉など民主化政策を実行しました。沖縄でも効果的な基地運用のためには、地元の協力だけでなく、日本を含めた国際社会の理解が不可欠でした。そのために、沖縄を〈民主主義のショーウィンドー〉にしようとしました。
ただし、1950(昭和25)年に出された沖縄統治の基本方針「琉球列島米国民政府に関する指令」に明記されているように、米国は「軍事的必要の許す範囲」において「民主主義の原則により設立された立法、行政、司法の機関による自治」を促進することとなっていました。沖縄における民主化政策には始めから制約があったのです。
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2 〈民主主義のショーウィンドー〉
52 琉球政府創立式典関係書類 1952(昭和27)年3月 pp.1-90 pp.91-180 pp.181-275 0000088098
53 [琉球政府創立式典]1952(昭和27)年4月1日 米陸軍写真 0000112221
(07-21-3)
54 『今日の琉球』第1巻第1号 1957(昭和32)年10月 米国民政府広報局 U00001261B
55 『守礼の光』創刊号 1959(昭和34)年1月 高等弁務官府 U00000290B
56 [琉米親善] 日付不明 宮城悦二郎写真 0000086520
(46-024)
57 “Okinawan Showcase” The New Republic (December 301957) フライマス・コレクション 0000024187
58 羽地村仲尾次区電気水道農道落成式 1963(昭和38)年1月24日 琉球政府写真 0000108713
(000729)
59 佐敷村兼久区へ高等弁務官資金贈呈 1971(昭和46)年6月4日 USCAR写真 0000112037
(21-11-3)
60 US Policy toward the Ryukyu Islands U90005149B

3.軍事優先政策の弊害

 米軍統治下の琉球政府は三権分立の形をとっていましたが、「軍事的必要の許す範囲」でのものでした。例えば、琉球政府の長である行政主席は1968年までは公選ではなく、民政副長官(のちの高等弁務官)による任命制でした。また、立法院(琉球政府の立法機関)は、米国民政府の発する布令・布告などに抵触しない範囲でしか法律を制定することができませんでした。さらに、米兵の犯罪は軍法会議で扱われ、琉球政府裁判所は関与することができませんでした。住民同士の事件でも、米軍支配に大きな影響のある事件は、地元の裁判所から米国民政府裁判所に移送されました。そして、米当局を批判するような出版物を禁止したり、「好ましからざる人物」の渡航を拒否したりするなどの措置がとられることもしばしばでした。住民は次第にこのような軍事優先の政策や制度に不満を募らせていきます。
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3 軍事優先政策の弊害
61 「ミード報告」 1956(昭和31年)年8月22日 ミシガン州立大学文書 0000074832
62 [琉球大学を訪れたロデリック陸軍次官ら]1956(昭和31)年11月 9日 米陸軍写真 0000112233
(08-85-1)
63 [上山中学生轢殺事故無罪判決に対する県民抗議大会] 1963(昭和38)年5月 琉球政府写真 0000108918
(057603)
64 タイトル 学童れき殺事故の無罪判決並びに渡航制限について(提訴)1963(昭和38)年 平良幸市文書 0000061857
65 松岡政保行政主席視察 読谷村親志小型トレーラー落下事件現場 1965(昭和40)年6月12日 琉球政府写真 0000108764
(016667)
66 友利・サンマ事件移送裁判初公判 1966(昭和41)年10月5日 琉球政府写真 0000108786
(021295)
67 『沖縄100万の叫び 嬉野京子写真集』1968(昭和43)年 新日本出版社 T00020646B
68 毒ガス即時撤去要求、アメリカのカンボジア侵略反対県民総決起大会 1970(昭和45)年5月23日 琉球政府写真 0000108839
(036171)

Ⅳ.復帰運動

 戦後すぐの沖縄では〈帰属問題〉、つまり日本へ復帰すべきか、独立すべきか、それとも国連の信託統治下におかれるべきかについてさまざまな議論が交わされました。やがてアメリカによる長期支配が確定して軍事優先の政策がとられるようになると、世論の大半は独立や信託統治ではなく、日本への復帰を唱えるようになりました。また、講和条約でもたらされた、日本にもアメリカにも属さないというあいまいな地位も住民を復帰へとかりたてる要因になりました。
しかし、米軍は当初、基地機能の維持と施政権の保持は不可分と考えていたため、日本復帰運動はアメリカの施政権に対する挑戦ととらえ、厳しく弾圧しました。米軍が施政権を盾に強権的な政策を行えば行うほど、県民が日本復帰を求める声は高まっていきました。やがてアメリカ政府は、沖縄政策の見直しを余儀なくされます。
ここでは、復帰運動の高まりとアメリカによる政策変更、その過程で形成されていった住民の復帰に対する考え方などを紹介します。

1.あいまいな地位

 アメリカ施政権下の沖縄の地位はあいまいなものでした。
アメリカは琉球列島が日本の領土であり、琉球住民の国籍が日本にあることは否定していませんでした。しかし、琉球諸島への出入りは、米軍によって厳しく管理されており、琉球住民が日本本土へ渡航する際にはパスポートが必要でした。
また、沖縄の船舶は、掲揚すべき国旗がなかったため、「国際信号旗D旗」という旗を掲揚して航行していましたが、国際的には通用せず、1962(昭和37)年4月、インドネシアのモロタイ島海域で操業中のマグロ漁船「第1球陽丸」が国籍不明を理由にインドネシア海軍から銃撃を受け、死傷者が出るという事件が発生しました。
その後、日米両国による交渉の結果、1967(昭和42)年7月からようやく日の丸の掲揚が認められるようになりました。
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1 あいまいな地位
69 琉球列島米国軍政府が最初に発行した旅行証明書(比嘉善雄氏のパスポート) 1948(昭和23)年7月28日 比嘉國郎 0000010120
70 強制送還者名簿 1952(昭和27)年~1964(昭和39)年 出入域管理事務所 R00026707B
71 出入管理部 パスポートを確認する職員 1961(昭和36)年6月29日 琉球政府写真 0000108886 (049075)
72 異議申立書綴 1961(昭和36)年 琉球政府警察局出入管理部警備課 R00027850B
73 Kyuyo Maru報告書 0000084807
74 [Kyuyo Maru 写真 1962(昭和37)年]USCAR公安局文書 0000084807
75 全琉船舶に新船舶旗掲揚 1967(昭和42)年7月1日 琉球政府写真 0000108796
 (024392)

2.〈祖国への道〉

 1952(昭和27)年の講和条約で、沖縄が日本本土から切り離されることが明らかになると、日本への復帰運動が高まりました。1953(昭和28)年1月には沖縄教職員会や沖縄県青年団協議会など23団体が参加して全島的な「沖縄諸島祖国復帰期成会」が結成されました。しかし、この運動は、米軍当局からの強い圧力にあい、やがて自然消滅しました。
こうして一時沈滞した復帰運動でしたが、1950年代後半に軍用地問題に端を発した〈島ぐるみ闘争〉が起こると、運動は再び息を吹き返しました。1960(昭和35)年4月には、教職員会、労働組合、政党、PTA、遺族連合会など幅広い団体が参加して、「沖縄県祖国復帰協議会」(復帰協)が結成され、運動の中心を担いました。この頃からはまた、賃金水準、税制、社会保障制度などでの本土との格差是正の観点から復帰のメリットを強調する傾向も強まっていきました。
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2 〈祖国への道〉
76 国旗掲揚に関する請願 1952(昭和27)年6月 琉球政府文教局庶務課 R00164307B
77 沖縄諸島祖国復帰期成会趣意書 1953(昭和28)年1月 沖縄市町村長協議会 T00015439B
78 復帰協 会議録 1960(昭和35)年 復帰協文書 R10000360B
79 復帰協 会議録 1966(昭和41)年 復帰協文書 R10000372B
80 アイゼンハワー大統領来沖 沿道の人々 抗議活動 1960(昭和35)年6月19日 宮城悦二郎写真

0000096834

(23-057)

81 4月28日沖縄デー 祖国復帰県民総決起大会 1962(昭和37)年4月29日 宮城悦二郎写真

0000096826

(15-050)

82 復帰デモ(祖国復帰県民総決起大会) 1964(昭和39)年4月29日 宮城悦二郎写真 0000096826
(15-097)
83 主席公選、自治権獲得県民大会(復帰協主催) 立法院前 1964(昭和39)年6月26日 琉球政府写真 0000108738
(007774)
84 平和を祈る青少年南日本大会 1965(昭和40)年11月 琉球政府写真 0000108766
(015731)
85 祖国復帰大行進団 1965(昭和40)年 4月27日 琉球政府写真 0000108769
(016647)
86 教公二法阻止、抗議県民大会 1967(昭和42)年 1月28日 琉球政府写真 0000108808
(027616)
87 祖国復帰要求大行進 1969(昭和44)年4月27日 琉球政府写真 0000108822
(031592)

3.さまざまな復帰論

 1950年代後半の島ぐるみ闘争において住民の不満の強さを目の当たりにした米軍当局は、それまでの統治政策を軌道修正しました。軍用地料の一括払いの断念のほか、外資導入促進のためのドル切り替え、日本政府からの技術援助の導入、西表島の日米共同開発など、本土との格差是正のための措置に積極的に取り組んでいきました。
そのような流れの中、当時、 長年沖縄の政権を握っていた沖縄自由民主党は、復帰を唱える前に、種々の障害を取り除くことが先決だとして、〈自治の拡大〉〈渡航制限の撤廃〉〈日本政府援助の拡大〉などを一つ一つ実績を積み重ねながら「祖国との実質的な一体化」を達成することを方針として打ちだしました。一方、〈日の丸掲揚〉〈渡航制限の撤廃〉〈主席公選の実現〉〈国政参加〉などを掲げて運動を推進していた野党は、「現状を肯定するもの」として与党を批判しました。このように、復帰運動のあり方をめぐっては住民の間で意見の対立も見られました。
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3 さまざまな復帰論
88 1957年度行政主席施政方針 1956(昭和31)年5月15日 「琉球政府公報」 0000002347
89 1958年度行政主席施政方針 1957(昭和32)年5月7日 「琉球政府公報」 0000002351
90 1963年度行政主席施政方針 1962(昭和37)年5月2日 「琉球政府公報」 0000002363
91 1968年度行政主席施政方針 1967(昭和42)年5月19日 「琉球政府公報」 0000002377
92 祖国復帰への道 沖縄自由民主党 U90006002B
93 復帰反対 星条旗を掲揚した男性2名 1961年4月21日 宮城悦二郎写真 25-3-115
94 [キャラウェイの自治神話スピーチ “Autonomy is a myth″ 1963年3月5日] 0000025873
95 第1回日米琉技術委員会 1964年7月15日 USCAR写真 0000112307
(12-17-4)

Ⅴ.日米による沖縄返還交渉

 日本政府にとって、明治以来自国の領土の一部であった沖縄の返還を実現するというのは、講和条約締結直後からの課題でした。交渉議題としての提案を試みますが、逆にアメリカ政府から「沖縄を返せというのなら日本は極東の安全保障にもっと貢献せよ」と迫られ、防衛力増強にコミットできない日本政府は、沖縄問題に触れることを避けざるを得ませんでした。
しかし、沖縄での復帰運動の高まりを受けて、1960年代に入ると、日米関係の安定ひいては極東全体の安定のためには沖縄問題は避けて通れないとの認識を日米両政府が持ち始めるようになります。アメリカ政府は1966(昭和41)年までには、沖縄問題をこのまま放置すると、近い将来基地機能が維持できなくなるとの危機感を持ち、検討を始めました。その結果、基地機能を損なわないことを条件に施政権の返還は可能との結論が出されました。アメリカ政府にとって沖縄返還は、「すべきかどうか」ではなく、「いつ」「どのように」という課題に変わっていきました。
ここでは、現在の沖縄の基地問題にも通じる、日米両政府による返還交渉の内実に迫ります。

1.交渉の始まり

 1962(昭和37)年3月、ケネディ大統領は「琉球は日本の一部」と明言し、〈沖縄新政策〉を発表しました。1964(昭和39)年4月には「日米協議委員会」「日米琉技術委員会」が設置され、日本と沖縄との「一体化」政策が推し進められました。こうして、高度経済成長を背景に沖縄に対する日本政府の関与が深まるにつれて、沖縄問題は日米間の重要な議題となっていきました。1965(昭和40)年8月には、戦後初めて現役首相として沖縄を訪問した佐藤首相は、「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって戦後は終わっていない」と演説しました。
沖縄返還を本格的に検討し始めたアメリカ政府は、1966(昭和41)年までに基地機能の確保を条件に施政権返還に応じることは可能との結論を出しました。そしてついに、1967(昭和42)年11月の日米首脳会談において、両3年以内に返還の時期について決定することが合意され、沖縄返還は現実のものとなりました。
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3 さまざまな復帰論
96 国家安全保障会議アクションメモ第133号 1962(昭和37)年3月 ケネディ大統領文書 0000073582
97 佐藤栄作総理大臣来沖 [あいさつ] 1965(昭和40)年8月19日 琉球政府写真佐藤栄作総理大臣来沖  琉球政府写真

0000002351

(055655)

98 佐藤栄作総理大臣来沖 [沿道] 1965(昭和40)年8月19日 宮城悦二郎写真

0000096822

(11-103)

99 佐藤栄作総理大臣来沖 [抗議] 1965(昭和40)年8月19日 琉球政府写真 0000002377
100 Our Ryukyus Bases 1966 U90006002B
101 民政府への通達に関する書類 1967(昭和42)年 琉球政府渉外課 25-3-115
102 若泉敬からロストウ大統領特別補佐官宛て手書きメモ 0000073624

2.1969年-米側の交渉戦略

 1969(昭和44)年6月、ワシントンで沖縄返還の日米交渉が正式に始まり、11月に予定されていた日米首脳会談での最終合意を目指しました。その際、最も難航したのが、有事の際の〈基地の自由使用〉〈核兵器の再持込み〉と返還に伴う〈財政補償〉でした。軍事的側面では、アメリカ政府は早々と核兵器撤去の決定をしていながら、交渉の最終段階までその〈切り札〉を使って、日本政府から譲歩を引き出していました。結果として、基地の自由使用は共同声明と同日に行われた佐藤首相による「一方的な声明」、核の再持ち込みは、秘密合意議事録という形で結実することになりました。また、財政的な側面についても、アメリカは返還によって財政的な負担を負うようでは米国民や議会の承諾が得られないと主張して、日本側に相当額の負担を強いました。
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2 1969年-米側の交渉戦略
103 国家安全保障決定メモランダム第13号 U90007004B
104 沖縄返還交渉戦略文書 U90007004B
105 “As Okinawa GoesSo Goes Japan” 1969(昭和44)年9月2日 国家安全保障文書館” U90005482B
106 沖縄返還:省庁間調整に関するケース・スターディ pp.1-60 pp.61-117 U90008139B
107 松岡政保主席日米共同声明に対する談話発表 1967(昭和42)年11月16日 琉球政府写真 0000108792
(023281)
108 屋良朝苗主席日米共同声明に対する声明を発表 1969(昭和44)年11月22日 琉球政府写真 0000108833
(034604)

3.財政交渉

 沖縄返還交渉が本格化した頃、アメリカはベトナム戦争の出費にあえいでおり、沖縄返還にかかる一切の経費は日本政府が負担すべきだと主張していました。一方、当時、貿易黒字で経済収支が好調だった日本政府にとっては、国民に「沖縄をカネで買い戻した」という印象をもたれないようにする必要がありました。交渉は難航しましたが、最終的に日本政府が3億2千万ドルを支払うとして、「沖縄返還協定」が公式に結ばれました。しかし、実際には、米軍が自発的に払うとされていた軍用地の原状回復費400万ドルや短波放送局ヴォイス・オブ・アメリカ(VOA)の国外移転費1600万ドルなどを日本側が負担することが秘密裏に合意されていました。
このいわゆる〈密約〉については、政府が設置した、有識者委員会の報告書(2010年3月)で「広義の密約」と認定されました。
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3 財政交渉
109 財政補償に関する柏木・ジューリック覚書 0000000793
110 [沖縄返還協定第4条第3項についての論議の要約] 1971(昭和46)年6月12日 オフラハーティ文書 U90007159B
111 [VOAの国外移転費に関する覚書] 1971(昭和46)年6月11日 オフラハーティ文書 U90007159B
112 屋良朝苗日誌1971年6月18日 0000097003
113 キッシンジャー大統領補佐官訪日用メモ 0000074401

Ⅵ.復帰への道~最終章

1969(昭和44)年11月、日米首脳会談において、長年県民が求めてきた日本復帰が正式に決まりました。その頃すでに復帰に向けた準備は進んでいましたが、首脳会談以降、一段と加速されました。しかし、長年のアメリカ統治により、沖縄には本土とは違う制度が数多く存在しており、制度調整や県政移行の作業は難航しました。ある人に言わせるとそれは「四角いパイプと丸いパイプをうまくつなぐ」ようなものでした。 一方、琉球処分や敗戦の時と同じように、この歴史的な〈世替わり〉を前に社会的な不安も広がり、復帰についての考えは立場によってさまざまでした。
ここでは、復帰が決まってから復帰するまでの約2年半の沖縄社会に焦点をあてて紹介します。

1・2.制度調整と県政移行

 1967(昭和42)年11月の第2次佐藤・ジョンソン会談の後、1968(昭和43)年3月に「高等弁務官に対する日米琉諮問委員会」が設置され、復帰に向けた準備がスタートしました。1969(昭和44)年の日米共同声明で1972年返還が決まると、翌1970(昭和45)年3月には「復帰準備委員会」が設立され、琉球列島米国民政府(USCAR)の機能を琉球政府や日本政府に移譲するための協議が行われました。
日本政府は1970(昭和45)年11月から三次にわたって「復帰対策要綱」を決定しました。それには、日本政府の対沖縄施策、本土法の適用のほか、沖縄に対する国の具体的政策が示され、国費学生制度、ハンセン病患者の保護、沖縄開発庁設置、通貨交換レート、琉球政府および関係機関の取り扱い等、246項目が盛り込まれました。琉球政府も1971(昭和46)年1月、復帰に広く県民の意思を反映させる目的で、各界の代表的人物50人余りで構成された「復帰対策県民会議」を設置しました。
アメリカ統治時代の琉球政府は、行政・司法・立法の三権が分立し、司法権を行使していたことなど、国家的要素もかなりの範囲で認められていたため、本土の都道府県のような地方公共団体とは異なった性質を持っていました。復帰の際には、琉球政府の持つ機能をそのまま沖縄県へ移行することはできませんでした。そのため、県政移行には多くの複雑で困難な作業が伴いました。
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1,2 制度調整
114 日米琉諮問委員会会議録 1968~1970年 琉球政府企画部 R00005383B
115 会議録 復帰対策特別委員会 第42回議会 定例 1970(昭和45)年 琉球政府立法院記録第二課 R00158286B
116 復帰対策要綱 1970(昭和45)年11月20日~1971(昭和46)年9月3日 琉球政府人事委員会 R00155456B
117 民政移転スケジュール 1970(昭和45)年 琉球政府復帰対策室 R00098656B
118 沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律(昭和46年 法律第129号)
1971(昭和46)年12月31日 内閣官房 国立公文書館
0000044135
119 復帰準備委員会発足式 1970(昭和45)年3月24日 USCAR写真 0000112137
(64-21-1)
120 復帰対策県民会議 第1回 1971(昭和46)年1月16日 琉球政府写真 0000108844
(037538)
121 身分引継案 返還に伴う「琉球政府公務員」の諸問題点 官公労建設支部 0000099152
122 復帰に伴う琉球政府公務員の身分引継ぎに関する要請書 1971(昭和46)年8月 復帰対策室 R00163385B
123 公文書類の引継要領 1972年1月22日 琉球政府企画局総務課 R00004972B
124 米国民政府への文書移譲要請 1972年1月 琉球政府企画局総務課 R00004972B
125 琉球政府閉庁式 1972(昭和47)年5月13日 琉球政府写真 0000108854
(040404)
126 「復帰まであと1日」 1972(昭和47)年5月14日 琉球政府写真 0000108854
(040378)

3.複雑な思い

 1969(昭和44)年11月の「日米共同声明」や1971(昭和46)年6月の「沖縄返還協定」に見られるように、日米交渉の結果は多くの沖縄県民が求めていた〈基地のない平和な沖縄〉とは程遠いものでした。
1971(昭和46)年11月の返還協定の国会承認を前に、屋良主席は県民の声を国会に訴えるべく「復帰措置に関する建議書」を携えて上京しました。しかし、返還協定は主席の到着を待つことなく衆議院特別委員会で強行採決され、県民の声は国会に届きませんでした。
その頃、米軍支配からの解放を〈復帰〉に託して国家に拠り所を求めた復帰運動自体が誤りだったとする〈反復帰論〉も台頭しました。
琉球処分による日本への編入以降、日本を祖国とみなす思いは多くの人に共有されていたとはいえ、このように、1972(昭和47)年の日本への復帰は、多くの県民が複雑な思いを胸に迎えることになりました。
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3 複雑な思い
127 各種ビラ 1969(昭和44)年10月 沖縄県祖国復帰協議会他 0000094157
128 「沖縄は沖縄人のものだ!われわれは日本復帰を急がない」
(琉球議会新聞広告) 1969(昭和44)年10月10日 平良幸市文書
08-107
129 「われわれは日本復帰を急がない!」神光ビル 1969(昭和44)年11月11日 宮城悦二郎写真

0000096819

(08-107)

130 新川明「思想の葬送」『新沖縄文学』 18号 1970年12月号 沖縄タイムス社 T00009489B
131 返還協定等に対する要請書 1971(昭和46)年5月 琉球政府渉外課 R00001220B
132 沖縄返還協定 了解覚書 [合同委員会のためのメモ] 1971(昭和46)年6月17日 H020100642  
133 屋良朝苗行政主席記者会見 返還協定調印 1971(昭和46)年6月17日 琉球政府写真 0000108848
(038814)
134 復帰措置に関する建議書 1971(昭和46)年11月18日 琉球政府渉外課 0000105865

Ⅶ.新生沖縄県

 1972(昭和47)年5月15日、27年間に及んだアメリカ統治が終わりを告げ、沖縄は日本に復帰しました。
これまで見たように、〈世替わり〉により生じるであろう急激な変化に対応するため、国も琉球政府も復帰前からさまざまな対策を講じてきました。しかし、米軍基地再編にともなう軍雇用員の大量解雇、ドルショックによる急激な円高など、沖縄をとりまく国内・国際情勢は想定を超えるような変化を沖縄にもたらしました。そして、復帰後に記念事業の一つとして行われた沖縄国際海洋博覧会や本土との格差是正を基調とした数次にわたる沖縄振興策などは、県民の生活だけでなく、県土の姿をも大きく変えていきました。しかしまた、日本復帰から40年が経った今なお変わらない問題もあります。
ここでは、復帰後に沖縄がたどってきた道を振り返り、長年の願いだった復帰がもたらしたものは何だったのかを考えます。

1.1972・5・15

 1972(昭和47)年5月15日午前0時、沖縄全島にサイレンと汽笛が鳴り響き、沖縄は復帰の日を迎えました。
しかし、その思いは複雑でした。琉球政府が要求した「即時無条件全面返還」はかなわず、日米同盟の再編の下、沖縄の米軍基地はそのまま残りました。と同時に、在沖米軍基地の再編合理化も行われ、基地従業員の大量解雇が断行されました。インフレや通貨切替による損失などとも相まって県民の間で〈復帰不安〉が広がっていました。
復帰の日の朝、日本政府と沖縄県主催の「沖縄復帰記念式典」が東京と沖縄で同時開催されている中、与儀公園では沖縄県祖国復帰協議会主催の「沖縄処分抗議、佐藤内閣打倒5.15県民総決起大会」が開かれました。 沖縄県にとって、この日はとても慌ただしい一日となりました。早朝6時15分から第1回沖縄県議会(臨時)を開催し、議長及び副議長を選出した他、県政移行に必要な予算や条例等を可決しました。また、県庁舎前で「沖縄県庁」表札の除幕式と開庁式を行うとともに、各部課長及び全職員に辞令を交付し、新生沖縄県の体制を整えました。
この日に施行された復帰特別措置法により、「従前の沖縄県は、当然に、地方自治法に定める県として存続するもの」とされ、琉球政府の行政主席を県知事、立法院議員を県議会議員とみなし、沖縄県は地方公共団体として新たなスタートを踏み出しました。その後6月25日に、県知事・県議選挙の投票が行われ、その結果、戦後初代県知事に屋良朝苗(やらちょうびょう)氏が当選し、44人の議員が誕生しました。
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1 1972・5・15
135 日本政府主催沖縄復帰記念式典 那覇市民会館
1972(昭和47)年5月15日 琉球政府写真
0000108854
(040393)
136 『沖縄祖国復帰記念式典記録』 1972(昭和47)年12月 内閣総理大臣官房 G00014042B
137 屋良朝苗日誌 1972(昭和47)年5月15日 0000097005
138 [5.15県民総決起大会 復帰協主催] 1972(昭和47)年5月15日 琉球政府写真 0000108854
(040495)
139 Okinawa Reversion: Local Reaction 1972(昭和47)年5月17日 国務省文書 U90008121B
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  新生沖縄県の始動
140 第一回沖縄県議会(臨時)午前6時15分開催 1972(昭和47)年5月15日 琉球政府写真 0000108854
 (040364)
141 県庁書類に初決裁する屋良朝苗知事 1972(昭和47)年5月15日 琉球政府写真 0000108854
 (040352)
142 沖縄県庁表札除幕式 1972(昭和47)年5月15日 琉球政府写真 0000108854
 (040382)
143 県新部長辞令交付 1972(昭和47)年5月15日 琉球政府写 0000108854
 (040402)
144 会議結果報告について 1972(昭和47)年5月 沖縄県議会県財政課 P00018950B
145 第1回庁議議事録[庁議議事録第1回~第35回] 1972(昭和47)年5月 県企画室 0000067335
146 知事当選証書(写)[屋良朝苗氏選挙資料] 1972(昭和47)年6月29日 県選挙管理委員会 T00003098B

2.復帰と経済

 日本復帰とともに、通貨はドルから日本円へ切替られることになりました。ところが、1971(昭和46)年8月、いわゆるニクソン・ショックによって、変動相場制が導入されると、ドルの価値は急速に下落していきました。復帰を控えていた沖縄では、ドルから円に交換する受け取り額が減ることが予測されたため、住民の間に不安が広がりました。
琉球政府は、この通貨問題によって沖縄に与える影響を最小限にすべく日本政府に対して抜本的な措置をとるよう要請しました。また、復帰を待たずに即時切替を実施するよう求める声も起こりましたが、実現しませんでした。
1972(昭和47)年5月12日、交換レートは305円と決定されました。変動相場制移行前の為替レートとの差額分は、政府が特別給付金として補償することが決定しましたが、その一方で、社会不安や便乗値上げなどから急激な物価上昇がおこりました。
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2 復帰と経済
147 特定物資の安定に関する書類 1971(昭和46)年 琉球政府生産課 R00060451B
148 通貨の個人保有確認作業 ドル差損補償 琉球銀行大道支店前
1971(昭和46)年10月9日 琉球政府写真
0000108851
 (039547)
149 通貨の即時切替えに関する要請書 1971(昭和46)年12月 琉球政府渉外課 R00001215B
150 沖縄地方同盟48時間スト 1ドル360円の賃金換算保障要求 南西航空社
1972(昭和47)年2月1日 琉球政府写真
0000108855
 (040680)
151 通貨切替用の円 沖縄入り 輸送トラックの列
1972(昭和47)年5月2日 琉球政府写真
0000108853
 (040209)
152 物価行政陳情関係  昭和48年度 県企画部県民生活室 H000011347

3.基地従業員の大量解雇

 沖縄の米軍基地は、沖縄の住民がいわゆる「基地従業員」として働く場でもありました。1950年代の朝鮮戦争勃発や米ソ冷戦時代を背景に、米軍は沖縄の恒久的基地建設を本格化させました。大量の労働力を必要としていた米軍は、多くの地元住民を基地従業員として採用し、ピーク時には請負で採用された人も含めて4~5万人が働いていました。
しかし、1969(昭和44)年11月「佐藤・ニクソン声明」により沖縄返還が決定すると、その1週間後の12月4日、米軍は2400人に及ぶ基地従業員の解雇を発表しました。アメリカは財政悪化を背景に、国外の米軍基地機能を維持しつつ人員削減による合理化をすすめていましたが、同声明発表後は、その動きを一気に加速させ、復帰時の1972(昭和47)年5月までに7000人が解雇されました。これに対し、琉球政府そして復帰後の沖縄県は、給付金支給、離職者の雇用あっせんなどの対策を行いました。基地従業員の大量解雇の問題は、復帰後の構造的な高失業率の要因になったともいわれています。
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3 基地従業員の大量解雇
153 軍雇用者の人員整理に関する資料
1969(昭和44)年12月~1970(昭和45)年1月 琉球政府渉外労働課
R00092287B
154 全軍労48時間ストライキ 第一波 1970(昭和45)年9月10日 琉球政府写真 0000108841
 (036947)
155 全軍労48時間ストライキ 第一波 1970(昭和45)年9月10日 琉球政府写真 0000108841
 (036959)
156 軍雇用員問題に関する要請書 1971(昭和46)年 2月 6日 琉球政府渉外課 0000105864
157 全軍労三千名解雇撤回要求48時間ストライキ
1971(昭和46)年2月11日 琉球政府写真
0000108844
 (037748)
158 特別給付金支給申請関係 1971(昭和46)年 琉球政府渉外労働課 0000081156
159 特別給付金申請 1972年3月 琉球政府渉外労働課 0000081150
160 「離職者のしおり」 1976(昭和51)年8月 県渉外労働福祉課 0000014444
161 「再出発のしおり 駐留軍関係離職者のために」
1977(昭和52)年4月 県公共職業安定所
0000014279

4.海洋博と社会変化

 1975(昭和50)年7月から半年間、「海-その望ましい未来」をテーマに沖縄国際海洋博覧会(海洋博)が開催されました。植樹祭、若夏国体に続く最大の国家的な復帰記念事業であった海洋博は、沖縄の復帰とともに、沖縄の特色(青い海・亜熱帯・独特の文化)を国内外に広め、観光立県として歩みだす契機となりました。
海洋博の開催が決まると、高速道路などの大規模開発が急ピッチで進められました。これらの関連公共事業は、本土との格差是正を解消する経済振興の起爆剤として期待された一方、当時の社会問題となっていた物価上昇、環境破壊及び本土資本の土地買い占め等を引き起こした原因としてみなされました。そのため海洋博開催に反対する世論も起こりました。
海洋博是か非かの賛否両論が渦巻く中、政府や本土企業を中心に開催準備が進められていく状況に対して、沖縄県は、単に場所を提供するだけでなく、県民が一体となって積極的に参加する必要性を感じ、独自で出展することを決めました。そして、県民から資金を募り、自らの言葉で沖縄の歴史と文化を伝える「沖縄館」を完成させました。
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4 海洋博と社会変化
162 沖縄国際海洋博覧会カウントダウンタワー あと900日 1972(昭和47)年 琉球政府写真 0000108858
 (041613)
163 復帰記念植樹祭 1972(昭和46)年11月26日 沖縄県写真 0000108906
(054825)
164 沖縄国際海洋博覧会関連公共事業に関する要請 1972(昭和47)年6月
県沖縄国際海洋博覧会協力局
P00013044B
165 沖縄経済の危機 1973(昭和48)年4月 県労働組合協議会 海洋博対策委員会 T94000007B
166 海洋博に伴う問題点及び対応策について
1974(昭和49)年11月 県沖縄国際海洋博覧会推進本部
P00013135B
167 沖縄館開会式における知事挨拶 1975(昭和50)年7月 県沖縄国際海洋博覧会協力局 G00010784B
168 海-その望ましい未来 沖縄開催のあゆみ
1976(昭和51)年6月 県沖縄国際海洋博覧会協力局
G00010784B

5.ナナサンマル

 米軍の統治下の沖縄の交通は、アメリカと同じく「右走行」でした。復帰にともない、「一国一方式」の国際条約の遵守にしたがって、日本本土の交通方法に変更することとなりました。実施された日が1978(昭和53)年7月30日だったことから「ナナサンマル」と呼ばれています。
1978(昭和53)年7月29日午後10時、全県車両通行止め・駐車禁止の特別交通規制を告げるサイレンの合図とともに「人は右、車は左」の通行区分の切替作業が開始され、翌30日午前6時に作業が完了しました。変更直後は、交通事故が相次ぎ、那覇など都市地区では交通渋滞が続きましたが、新しい交通ルールは徐々に県民に定着していきました。復帰処理事業のひとつとして実施された「ナナサンマル」では、バス停留所の変更、バス・タクシー車両の切替えなど大規模な施設整備が行われました。 その一方、車の流れが変わったことによって営業に影響が出た人や道路用地の補償問題等があり、不満も起こりました。
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5 ナナサンマル
169 国際通り 1972(昭和47)年3月 琉球政府写真 0000108905
(054512)
170 沖縄県における交通方法の変更時期について(回答)
1975(昭和50)年5月 沖縄県知事
H00010666
171 要望書 交通方法変更対策について 1976(昭和51)年8月 沖縄県 0000034350
172 沖縄県交通方法変更特別事業計画(案) 1977(昭和52)年8月 県企画調整室 H00010777
173 交通安全施設等整備事業施行実績報告 1977(昭和52)年度 県地方課 0000016359
174 昭和52・53年度道路関係国庫事業実績報告書
1979(昭和54)年6月30日 県道路課
0000016457

6.残された基地問題

 復帰前の沖縄には、全県土の14.8%(本島では27.2%)に相当する約353㎢におよぶ米軍基地が存在しました。1971(昭和46)年6月に日米政府間で調印された沖縄返還協定は、沖縄の米軍基地を復帰後も米国が継続して使用することを認め、また、どのような範囲で提供するかについては、同協定に附属して締結された「基地に関する了解覚書」において、復帰の日から使用する基地88か所、適当な時期に返還される基地12か所、即時返還される基地34か所が定められました。これによって、復帰の際に多くの住民が望んだ「基地の無い形での復帰」とは、実態として程遠いものとなりました。
基地負担とは、振興開発上の障害ばかりでなく、米軍人・軍属等による事件・事故の被害、騒音による生活への悪影響、さらには汚染物質の流出等による自然環境破壊などの住民の安全や安心を損なう諸問題を意味します。県は、住民が戦後背負ってきた過重な基地負担を軽減することを県政の最重要課題とし、基地の整理・縮小、日米地位協定の見直し、その他の基地から派生する諸問題の解決に日々取り組んでいます。
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6 残された基地問題
175 施設及び区域の提供通知 5.15日分 1972(昭和47)年度 県基地渉外課 H020100631
176 B52飛来抗議村民総決起大会 嘉手納 1972(昭和47)年10月28日 琉球政府写真 0000108931
(060033)
177 沖縄の米軍基地分布図 1973(昭和48)年5月15日 県基地渉外課 R10001210B  
178 県道104号線越え実弾射撃訓練関連文書
1973(昭和48)~1979(昭和54)年度 県基地渉外課
H020100631
179 伊江島射爆場における青年狙撃事件関係文書 1974(昭和49)年度 県基地渉外課 H020101109
180 裁決申請書(嘉手納飛行場)那覇防衛施設局 1981(昭和56)年度 県収用委員会 0000080524

7.沖縄振興策

 米国統治下にあった沖縄と高度経済成長期にあった本土では、経済的な格差が大きかったため、復帰後の沖縄は、まず格差を是正することから始める必要がありました。そのため政府は、復帰特措法の制定や沖縄開発庁を設置し、「沖縄振興開発計画」を策定して、三次30年にわたって沖縄の振興開発に取り組みました。第一次及び第二次の計画では、「本土との格差是正」、「自立的発展の基礎的条件の整備」が基本目標とされ、第三次においては、これらに「特色ある地域として整備」が追加されました。この間の沖縄振興施策に投じた国費は総額約7兆円で、制度面では公共事業等の高率補助の他、酒税や揮発油税等の国税の軽減措置等が適用され、社会資本や生活環境の整備では一定の成果をあげました。
一方、全国平均の7割程度にとどまる県民所得、厳しい雇用情勢、高い財政依存度など、解決すべき課題も残りました。そこで平成14年度からは、従来の計画から「開発」の2文字を除いた「沖縄振興計画」が策定され、「本土との格差是正」を基調にするキャッチアップ(追いつこうとする努力)型の振興開発だけではなく、沖縄の特性を十分に発揮したフロンティア創造(新しいものを創り出していこうとする努力)型の振興策への転換が図られました。(同計画は平成23年度終了。)
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6 残された基地問題
181 「沖縄産業10年計画評」 1916(大正5)年 9月 <第6代沖縄県知事> 高橋琢也 T00009181B
182 沖縄県振興開発説明書[長期計画2] 1932(昭和7)年12月<内務省> 県振興計画調査会 H020087001
183 経済振興第一次五カ年計画書[長期計画2] 1955(昭和30)年6月 琉球政府 H020087001
184 長期経済計画書 1960(昭和35)年5月 琉球政府 G80002578B
185 沖縄長期経済開発計画 1970(昭和45)年7月 琉球政府 G80000523B
186 沖縄振興開発計画の案の提出について[条例等制定改廃関係]
1972(昭和47)年度 県企画調整室
H000032732
187 第2次沖縄振興開発計画の案 1982(昭和57)年6月 沖縄県 G00002679B
188 第3次沖縄振興開発計画の案 1992(平成4)年8月 沖縄県 G00005168B

8.明日への〈選択〉

 かつて沖縄の先人は、常に進取の気概をもち、海外との交易を通じて経済的自立を図り、平和で心豊かな生活を営み、独自の文化を開花させ、一国としての歴史を歩んでいました。しかしながら近世以降には、薩摩の琉球入りをはじめ、近代の明治政府による琉球処分、悲惨な沖縄戦、戦後の米軍統治など、暗いイメージの歴史もありました。こうした歴史的経験を通じて、県民は、自ら立ち上がろうとする内発性と沖縄人(ウチナーンチュ)としての自覚を育み、日本復帰を実現させました。(※)
そして、それから40年の歳月が流れ今の沖縄があります。その間に県民の意識や価値観も変わりました。沖縄の岐路となった復帰とは何だったのか? 琉球と日本、国益と民意、支援と負担、開発と自然・・・、さまざまな利害と価値観がぶつかる中で、国や県そして県民は何を選択してきたのか? また、その選択の結果によって、社会そして県民の生活や意識がどのように変化してきたのか? 公文書館には、その手がかりが残されています。
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6 残された基地問題
189 「本土復帰一年後の沖縄県民の意識」1973(昭和48)年11月 内閣総理大臣官房広報室 G94000098B
190 「沖縄県のイメージ等に関する県民意識調査」 1995(平成7)年3月 県広報課 G00000022B
191 「国際都市形成基本計画21世紀・沖縄のグランドデザインの実現に向けて」
1997(平成9年)5月 県国際都市形成推進室
G00021813B
192 「沖縄21世紀ビジョン みんなで創る みんなの美ら島 未来のおきなわ」
2010(平成22)年3月 県企画調整課
0000104459